エクチェン! 1




 孤児だったマダーが孤児院で赤い髪と赤い目を理由に悪魔の子みたいだ、といじめられ続けて数年。赤みを帯びた満月の夜に、黒い翼の女が舞い降りた。
「あなたを迎えに来たわ。私の息子にならない?」
 マダーは悪魔でもいいから自分を大切にしてくれる家族が欲しいと願っていたので、迷うことなく悪魔であるローズ・グレスケルの手を取った。
 少年マダーの背中には、悪魔の翼を模した『偽翼(ウエアラブルウイング)』が取りつけられる。科学者でもあるローズが造った人間を悪魔へと変貌させる人工物とでも呼べるものだ。
 それから更に数年後。
 悪魔界のローズの城で、二人は仲良く暮らしていた。大広間で紅茶を飲むマダーの元へ、ローズがにこにことやってくる。
「完成したわ」
「母様、完成したって、何が?」
「あなたの悪魔の偽翼と対になる、天使の偽翼よ」
「天使の?」
「これを持って人間界へ行ってらっしゃい。あなたのお嫁さんになりそうな子につけてくるのよ」
「お、お嫁さん!?」
「そう。その偽翼天使がマダーに惚れれば堕天使になるかもしれないわ。そうすることでマダーの悪魔力がアップするからよ」
「へー、そうなんだ。というか、まだお嫁さんとか考えたことないし。まだ十六だし」
「ふふふ。いいから、久し振りに人間界へ行ってらっしゃいな」
 大きな旅行鞄に天使の偽翼が詰め込まれ、マダーに手渡される。彼は躊躇いながらも受け取った。
「母様が選ばなくてもいいの?」
「ぜーんぶ、あなたの感性に任せるわ」
 気楽に言う母に、マダーはため息をつきたい気持ちになる。色恋とは無縁の自分が、急に将来の相手を選ぶことになろうとは。母も随分な無茶振りをするものである。
「ぼくの恋人は、最初から悪魔じゃなくていいの? 偽翼でも天使なんて、母様の…何ていうか、周囲の悪魔に色々言われたりしない?」
「そんなことを気にするなら、あなたを息子にしたりしないわ」
 ローズは微笑み、息子を抱き締めた。
 マダーはハグに照れながらも「分かった。行ってくるよ」と言う。もう戻ることはないと思っていた、人間界へ行く決心をした。それが、母の研究に役立つと分かっていたからだ。



 人間界へ行くと夜だった。人が少なくなる時間に来たことに、しまったな、と内心思う。
 天使になれそうな人間とは、どういう基準で分かるものだろうか。悪魔のマダーが気配でも察知出来れば良いのだが、生まれ故郷の上空を飛び回っても、何もピンとこなかった。母はあなたの感性に任せる、と言っていたので、何か感じることは出来るだろうと、気楽に考えることにする。
 天使になりたいと思ってくれるような子は、教会にいるかと思い、各所の大きな教会の周囲を飛んだ。しかし、大聖堂などは人が集まりやすい分、悪魔除け対策もしっかりしており、迂闊には近づけない。
 マダーは母から、元人間の特権で、悪魔除けがあまり効かないと聞いていたが、無理はしなかった。
 翌々日の昼頃には、海を渡り、異国の島国へやって来た。異国では教会が少ないだろうが、悪魔除け対策がされてないのでは、という考えからだった。
 疲れを感じたマダーは、悪魔より下級の妖魔が近くにいないことを確認し、昼寝をすることにする。心地よい風を頬に受け、森の木陰で休息をとった。
「…寝過ぎた」
 また夜になってしまった。起きてみると、既に日が沈んでいた。人間界では、悪魔の代わりに妖魔と呼ばれるものたちが跋扈している。妖魔たちが活動するのに最適な時間だ。
 異国の妖魔に興味を覚えたが、すぐ自分の目的を思い出す。ショルダーバッグから携帯食を取り出し、腹を満たした。天使の偽翼が入った旅行鞄を持ちつつ悪魔の偽翼をはためかせ、上昇する。仄かに赤い月の夜だった。
 旅すがら悪魔の自分から天使になってくれ、と頼んでも説得力がないことについて考えていた。どう勧誘したら天使の偽翼を貰ってもらえるだろうか。自分のお嫁さんとまではいかないとしても、好みの人間に出会うことが出来るか、など悩みは尽きない。
 「長い旅になるかな…」
 独り言が口をついて出た時、廃墟の上を通ったと気づく。
 周囲一帯が焼け野原であり、廃墟は建物の形を半分も保っていなかった。天井が壊れており、月光が差し込んでいる。
「酷い。妖魔の襲撃かな?」
 呟きを残し、通りすがろうとした時、人がいることに気づいた。
 長い黒髪の女のようだ。
 年齢は分からない。黒くすすけた像に向かって、頭を垂れて祈っているようだった。
 少し近づくと、黒くすすけた像は、マリア像だと分かった。
 ここは元教会だったのだろうか。マダーは疑問に思って、崩れた天井の一角へ足を乗せた。見える範囲では、十字架はないようだ。
 女は這いつくばり、泣き出した。声をかけづらい。マダーは女の動向を見守る。
 すると、女は顔を上げ、恨みがましそうな目で、しかし、縋るような目で立像を睨んだ。マダーと歳の変わらなそうな、少女だった。
「私は無宗教だけれど、神に頼るしかない。どうか、あのお方の…殿の視力を取り戻して欲しいのです。私の命と引き換えで構わないから!」
 少女は涙を拭い、また口を開く。
「異教の神や天使は、奇跡で人の傷をも癒やせる力を持っていると聞いています。だから、どうか、私の願いを聞き入れて、姿を見せて下さい!」
 必死に叫ぶ少女だが、神も天使も姿を現さなかった。少女の嗚咽だけが虚しく廃墟に響く。
 少女が「トノ」のため、自分の命を賭して神の奇跡を頼っているのは理解出来た。ただ、それだけでは神はおろか、その下の天使にすら願いは届かない、とマダーは知っている。
 神はすべてをみてはいない。
 かつて、マダーが身を寄せていた孤児院は教会も兼ねていた。彼も幼き頃、神に自分を捨てた家族に合わせて欲しいと何度も祈ったが、願いは叶わなかった。いじめっ子たちからも助けてはくれなかったから、神も天使も存在を信じていなかった。
 悪魔のローズが姿を見せて、初めて次元を超越した存在を認めることになる。
 可哀想に、少女の願いはこのまま闇夜に溶けて消える、そんなことを想像したマダーだった。
「…死んで魂になれば、会ってもらえるのかしら?」
 皮肉げに笑った少女を見て、マダーの心は痛んだ。彼もそう思ったことがある。
 下級の天使には会えるかもしれないが、奇跡の治癒術の力を貸すとは思えない。
「神と天使のばーーーーか! この世には、神も仏もないって分かったわ! でも、じゃあ、どうしたら良いのよーッ! 薬師もさじを投げたのに、それ以上の医術を身につけろとでもいうの!」
 人が変わったように雄叫び始めた少女に、マダーは思わず笑ってしまった。
「プッ」
 少女はハッとした顔つきになる。
「あははは。あのさ、この場所は天使の管轄外だろうから、キミの願いは届かないと思うよ。だから、悪魔の力で良ければ、貸そうか?」
 天井から降ってきた言葉に、少女は慌てて上を見た。壊れた屋根の穴から、あどけない顔の少年がこちらを見下ろしている。
「天使!?」
「違うよ。ぼくは、悪魔」
「…私は神に祈ったのに、現れたのが悪魔って、どういう皮肉? 私は異教に詳しくないけれど、神や天使の敵なのでしょう?」
「まあ、そうだね。でも、悪魔のぼくで良ければ、キミの力になれるかもしれないよ」
 少女は言われている意味が分からず、片目を細めた。ただの少年が妄言を吐いているようにしか聞こえなかった。
「いいえ。だめよ。あのお方は、いつかこの国全体を束ねる立場になる。その時、悪魔に力を貸して貰ったなどと話があってはいけない。だから、せめて、天使でいい、私の前に現れて力を貸して欲しいのに。何でよりによって悪魔が出てくるの!」
 怒り出した少女の瞳にはまだ生気があった。マダーはそれを見て、話を続ける。
「でも、天使は命と引き換えに願い事を叶えてはくれないよ? そういうのは、悪魔の仕事かな」
「では、どうしたらいいの…。どうやったら、神や天使は私に力を貸して下さるの? 私のせいで視力を失ってしまった、あのお方のために、治癒の術を施してくれるの?」
 少女の疑問には構わず、マダーは尋ねる。
「キミの話に興味を持ったから、ちょっと事情を聞かせて欲しいな」
「…嫌よ。何で悪魔なんて嘘をつくやつなんかに…」
 バサリ、と大きな羽音が少女の耳に入る。黒い翼を広げながら、マダーが降り立った。
「黒い翼を持つのは悪魔だって、知ってる?」
 マダーが笑って言うと、少女は信じられない、というように目を見開いている。
 二の句を告げられないでいる彼女に、マダーは名乗った。
「ぼくはマダー。悪魔。って言ってるけど、実はさ、ホラ、こんなふうな翼を持ってて、人間から悪魔になったんだ。純粋な、生まれつきの悪魔ではないよ」
 マダーは背中を見せて、背中から少し離れてついている偽翼を見せた。耳を触り、尖っていることを教える。尻尾も動かして見せた。
「…何を言っているのか分からない」
「あは。そうだよね。えっとね、ぼくの母親が悪魔の科学者で、人間のぼくを息子にしたいって言って、この偽翼を…ウエアラブルウイングをくれたんだ。これを身につけることで、ぼくは悪魔になった」
「あんたが悪魔になった話はどうでもいい。天使じゃないなら、どっか行って!」
「そう怒らずにぼくの話を聞いてよ」
 マダーは旅行鞄を見せて、笑う。
「神や天使には頼らない方がいいよ。だからさ、キミ、自分が天使になる気はある?」
「…は?」
 少女は間抜けな声を出す。いよいよ混乱極まる表情の彼女に、マダーは鞄の中身を見せた。白いふさふさの天使の翼が一対入っている。
「異端の天使だけど、ぼくはキミを天使にしてあげられるから、自分で治癒術を使うと良いよ」
 完全に思考がフリーズしたとみられる少女に、マダーは構わず言う。
「この天使の偽翼を背中につければ、キミは天使になれる。天使を呼んでも来ないなら、自分が天使になっちゃえばいいんだ。でも、まずは、キミの名前を聞いて、あとは、さっきの視力がどうのこうのの事情を聞いてからじゃないと、あげないけど」
 少女はマダーを凝視した。彼女の中で色々な計算と葛藤が生まれているんだろうな、と思い、マダーは黙って待つ。
 数回瞬きをした少女は、戸惑いの残る声音で喋った。
「…私の名は紗細(ささめ)。この前、妖怪の襲撃を受けた町の住人。その時、町を治めるお殿様が、私のことをかばって下さり、両目に怪我をされたの。それで、視力を失ったそうよ」
 紗細は一度言葉を切った。少し青みがかった黒い大きな瞳から、ぽたぽたと涙が流れる。
「殿は、この近辺では有力な武将で、この島全体をまとめようと必死に戦っていらっしゃった。なのに、たかだか町娘一人を助けるために、身を挺して下さった。おかげで私は生きているけれど、殿は視力を失ったせいで今までのように戦えない。私は、殿の天下統一の夢を…平和への夢を奪ってしまった!」
 泣きじゃくりながら、それでも紗細はマダーを見据える。
「だから、殿に視力が戻るなら、私の命と引き換えで構わないの」
「そうだったのか。ねえ、ササメ、キミにそれだけの覚悟があるなら、きっと良い天使になれるよ」
 紗細の視線が白い偽翼に移る。
「本当に、その翼で、私は天使になれるの?」
「多分ね」
「多分!?」
「ササメに天使になれる見込みがあれば。とりあえず、背中にこれがつくか試してみないと。この翼の根元にあるものが、天使のパワーを察知したら、偽翼はキミに適合するはず」
 マダーは旅行鞄から翼を取り出した。
「天使になってからのことも、母様が天使界に伝手があるそうだから、何とかなると思う」
「天使界に伝手のある悪魔って何!? どういうこと!?」
「さあ? よくは分からない。母様はこの偽翼の技術を天使界に売り込みたいらしいよ。悪魔はどんどん生まれるけど、天使は中々生まれなくなってるらしいから」
「だからって、ただの人間を天使にするって、おかしくない? それも、敵対するはずの悪魔が天使を増やす手助けをするなんて…」
「難しいことは良く分からないけど、ぼく、母様がすることは間違いないって思ってるから。あと、いくら何でも、誰でもほいほい天使になれる訳じゃないよ? 天使の見込みがある魂じゃないと。ぼくは、えーと…えっと、うん、悪魔の見込みのある魂だったから、この偽翼で人間から悪魔になったんだ!」
 マダーは胸を張る。
 紗細は自分に天使の見込みがあるとは思えなかった。素直に告白する。
「今の私は、妖怪を憎んでいるわ」
「ヨウカイ…。ああ、妖魔のことだね? この国ではそう呼ぶのか」
「妖怪たちは、要するに悪魔の手下に近いと聞いたことがある。それなのに、あなたの力を借りるなんて…。それに、憎悪溢れるこの心に、天使の見込みなんてないと思う」
「じゃあ、やめておく?」
 紗細の黒い瞳が戸惑いに揺れた。狐に化かされている気持ちになる。人間から悪魔になったり、天使になったりするなんて。
 しかし、紗細には他に縋れるものがなかった。
 悪魔の力で天使になった経緯がバレなければいい…。
「天使になれる自信はないけれど、その偽翼、つけてみるわ」
 紗細は背中を向けた。マダーは微笑んで彼女の決意を受け入れる。
 彼女の背に天使の偽翼を近づけると、偽翼の根元が発光し、吸いつくようにしてマダーの手を離れた。紗細の背から若干離れているが、彼女の背には天使の偽翼が装着されたのだ。
 天使になったため、紗細の頭上に天使の輪っかも現れる。
「ササメ、天使になれたじゃん!」
「えっ? これで!?」
「うん。自分の意志で、羽ばたいてごらん」
 言われて紗細は、恐る恐る翼を動かそうと意志を込めた。すると、紗細の意志に合わせて、左右上下に動くではないか。
「信じられない…。何だか、言いようのない力を感じるけれど、これが天使なの?」
「ぼくは天使じゃないから分からないけど、ササメから天使っぽい清浄な気は感じるよ」
 そう言われて、紗細は改めてマダーを見た。彼が、先ほどまでは感じられなかった、弱々しい邪気を発しているのが分かる。
「ササメに適合して良かった。ちょっと待ってて、母様と通信機で話すから」
 通信機、と言ってマダーがショルダーバッグから手のひら大の黒い箱を出した。紗細には通信機とやらが何か分からず、ただの黒い箱にしか見えない。
 女性の声が箱から響いた。マダーが嬉しそうに女性と話す。
 あの黒い箱はどこかと繋がっているようで、紗細は悪魔の術だ、と思い、会話の内容を聞くのをなるべく避けた。
 会話が終わり、マダーが紗細の方を向く。
「天使界に連絡を取って手はずを整えてる間に、半日遊んでてって」
「遊んでてって…」
「ササメ、家族は?」
「いるわ。でも、お別れは別にいい。仲は…あまり良くないから」
「そうなんだ」
「私がお会いしたいのは、あのお方だけ」
「天使界で修行してたら、治癒術が使えるのには個人差があって、数ヶ月から数年だって」
「数年!?」
 紗細はそんなに待っていられない。数ヶ月でものにしてみせる。
「ササメが努力すれば、きっと大丈夫」
 マダーがそう言って微笑んだので、紗細も少し笑えた。
 紗細はその夜のうちに実家へ帰り、手荷物だけを素早く持ち去った。「旅に出ます。探さないで下さい」とだけ手紙に書き残す。
 夜明けに紗細は自力で空を飛んだ。遠くから殿の城を見る。殿は庭で素振りをしていた。
「目が見えないのに、剣術の稽古は欠かさないのね…」
 殿の姿を見納めにしないためにも、自分は必ずこの場所へ帰ってくると誓う。
「行きましょう、マダー」
「うん」
 二人は人間界をあとにし、一旦はローズの待つ悪魔界の入口へ行くこととなった。そこで別れ、紗細は天使界へ旅立った。
 マダーは、本当に紗細が天使界へ行けるようになったことに、多少驚いた。母の言葉を疑っていた訳ではないが、母が天使界に伝手があるのは本当の話だった。だが、母の過去を詮索する気にはなれない。
 今は、紗細の成功を祈るばかりだ。



 三ヶ月後、ローズを介して、マダーは紗細が治癒術をマスターし、天使として頭角を現し始めたと知る。
「三ヶ月って…早いね」
 マダーは自作のケーキを食べる手を止めた。
「そうね。しかも、彼女は治癒系の術より、攻撃系の術の方が得意だそうよ」
 なぜか嬉しそうな母を見ながら、マダーは食べることを再開する。
「面白そうだから、私が迎えに行くわ」
「ええっ? まさか天使界に行くつもり?」
 口にしたケーキを吹き出しそうになった。
「入口までね。そして、このお城にご招待するの」
 ローズは胸の前で両手を合わせてお祈りのようなポーズをする。
 天使を悪魔の城へ招待するとは、母は随分なことをするな、と思いながらも、マダーは止めなかった。
「…あのさ、母様。前にも言ったけど、ササメにはぼくのお嫁さんになるとかそういう話はしてないから、彼女に会っても何にも言わないでね!」
「ええ、分かったわ。お城にご招待して、人間界へ行かせてあげるだけね」
 ローズの宣言通り、翌日には紗細はマダーの住む漆黒の城にいた。豪奢なシャンデリアのある大広間で、菓子や紅茶の並ぶ長テーブルを見ながら、紗細は半眼でうめく。
「悪魔に偽翼天使にして頂いた私が言うのも何ですけれど、悪魔界まで来るのは結構背徳感がありますね…」
「あら、そんなの気にしちゃだめよ」
 軽く言うローズに気後れしたものを感じつつ、紗細は振る舞われた紅茶で喉を潤した。
 そこへ、マダーが入ってくる。
「ササメ! 久し振り!」
「マダー!」
 気軽にハグしようとするマダーを軽く牽制しつつ、紗細も再会を喜んだ。その視界の端に、大広間の窓から昼間の光に溢れた悪魔界が見える。人間界や天使界と変わらない光景だった。
 窓の外には大きな山がいくつも見えた。この城も山の中腹にある。
 悪魔界には九人の上級悪魔や大悪魔がいて、それぞれ九つの山に城を構えていた。最上級階級の大悪魔、ローズ・グレスケルの息子が、偽翼悪魔マダー・グレスケル。
 そう聞かされたのは、天使界の大天使からだ。どのような繋がりがあるのか、紗細は果敢にも聞いてみたが、回答は得られなかった。
 世界は他に、天使より格上の神々が住まう神界と、悪魔より格上の悪神たちが住まう魔界などがある。神界には夜がなく、魔界には夜しかないと聞かされた。紗細では到底行くことの叶わぬところであるとも言われている。
 目の前の大悪魔は紗細に問うた。
「大丈夫? 悪魔界の空気が息苦しくない?」
「いえ、なぜか身に馴染んで快適です」
「あら、じゃあ、悪魔界が合っているのかもね」
「いえ? 私、これでも一応天使ですけども?」
「それでも、あなたには悪魔向きなところがあるのよ」
「はあ」
 ハテナ顔の紗細とマダーを残し、ローズは大広間を出て行った。紗細は眉をひそめて聞く。
「悪魔向きとか言われちゃったんだけれど、どういうことかしら?」
「…どういうことだろうね」
 紗細の疑問を解決する術をマダーは持たない。
 気を取り直して、二人はマダーが作った菓子をつまみながら、近況を話し合った。菓子も紅茶のおかわりも尽きたころ、紗細は立ち上がる。黒いワンピースの裾が揺れた。
「さて、そろそろ人間界へ行きたいな」
 ローズにあいさつを、と思ったが、行方が知れない。
「ぼく、ちょっと探してくるよ」
 マダーも席を立つ。大広間を出ようとしたところへ、ローズが入って来た。
「マダー、あなたも人間界へいってらっしゃい。最近、悪魔より下等な妖魔たちが世界中で活発活動しているわ。特に、ササメの島国では個性的なのが多いから、その中から手下を作ってみたら?」
「ぼくも人間界に? いいけど、手下は別にいらないかなあ」
 ローズは息子に慈愛の微笑みを向けながら、一冊の本を手渡す。
「これを持っていって、困ったことがあったら読むのよ」
 それは、表紙も背表紙にもタイトルが書かれていない本だった。
「…うん、分かった」
 マダーは深くは尋ねず、薄い本を受け取った。
 自室でショルダーバッグに本を入れて、紗細と共に城を出る。また人間界へ行くのか、と思ったが、さほど嫌とは感じなかった。人間界では良い思い出がない。それでも、どんな口実でも、紗細が目的を果たすところは見てみたいと思えた。
 二人は、人間界へ行くためのワープポイントまで飛んで行く。
 悪魔界のまだ明るい青空に、黒い翼と白い翼が映える。
 その後ろを、一匹のコウモリが飛んでいた。二人はそのことに気づかなかった。



 人間界では、白い月が輝いている。星々は煌めき、静謐な夜だった。
 ローズの手配は完璧で、ピンポイントで紗細の住んでいた国・和小里(わおり)までやって来られた。道もない森の中、偽翼の悪魔と天使が地に足をつける。
 花冷えのする季節であることを、紗細は知った。
「桜はまだ蕾か。残念」
「サクラ?」
 マダーは月光に照らされた木々を見上げる。花の蕾らしきものに目が留まった。
「もう少ししたら、桜という薄桃色の綺麗な花が見られるわ」
「へえ」
 異国の花を見てみたい気になったマダーだったが、そんな彼の目に、一筋の煙が見えた。紗細もそれに気づき、二人は翼をはためかせて跳躍する。
「和小里から火の手が上がっている?」
 紗細が緊張の走った声で呟いた。彼女は慌てて索敵すると、妖怪たちの邪悪な気配が和小里を取り囲んでいるのを察知する。
「妖魔の襲撃に遭ってるんじゃないかな」
 マダーの声に、紗細はすぐさま和小里の町へと飛んで行く。
「ササメ、一人じゃ危ないよ!」
 制止の声も聞かず、紗細は言い返す。
「悪魔のあなたは来ないで! 人間に見られたら困るわ。私一人で何とかするから!」
 彼女の言葉に一瞬迷ったマダーだったが、言われた通りにするつもりはなかった。紗細の少し後ろを飛んだ。
 町の近くまで来ると、逃げる人の流れが一定の方に向いていると紗細は気づく。
 誰かが指揮を執っている。無論、殿かその配下の人間だろう。地上へ目を走らせると、人々の行く先に、城がある。殿は籠城戦でもするつもりか。
 武将や歩兵、鉄砲隊が見えるところまで来たが、妖怪の数が多く劣勢だった。紗細は戦の最前線へ降り立つことは避け、少し離れた外側から攻めることにした。
「「悪魔のあなたはどいていなさい! 浄化の光に巻き込まれないようにねッ!」
 悪魔を浄化する術で紗細は妖怪たちを五、十とただの魂へと変えていく。
「…効きが悪いわね。妖怪と妖魔は少し性質が違うと聞いていたけれど、そのせいか」
 紗細は舌打ちする。
「マダー、悪魔力を上げたいなら、その魂、消してもいいわよ」
「そんなことする気ないよ〜」
 マダーは眉を八の字にして笑う。
「あそう」
 紗細たち天使には天使力という階級を決めるためのバロメーターがある。それは悪魔も同じで、それぞれの行動により上下する。
「魂はこのまま天使界に送らないと浮遊魂になっちゃうでしょ?」
「あとで誰かにまとめて引き取ってもらうから、今は散らしとくわ!」
「…それ、ササメの天使力上がらないね」
「その魂、俺様がもらい受けよう」
 突如会話に割って入ってきた異質な声音に、二人は驚いた。
 声がするまで、気がつかなかった。
 悪魔のマダーも、天使の紗細も。
 黒い翼を広げて中に浮く、他の悪魔の存在に。
「あんたは!?」
 紗細が鋭い声で尋ねた。
「俺様は上級悪魔、レイリクル」
 男がそう名乗る。スキンヘッドの頭に紋様のようなものが描かれていた。額には一本の角がある。
「レイリクル…。九連峰に城を構えてるヤツだよ!」
 マダーの叫びを聞き、紗細はローズの城から見た山々を思い出す。つまりは、上級悪魔か大悪魔の類だ。しかし、相手がだれであろうと構わない。
「上級悪魔さんが何の用かしら? 私に消して欲しくて後でもつけて来たの?」
 レイリクルは紗細の挑発的な台詞を一笑する。
「悪魔界にいる時から、偽翼を狙っていたのさ。俺様は昔、ローズの助手をしていた。悪魔の偽翼を大量生産するようにしたかったが、ローズに反対されて助手を辞めた。しかし、俺様一人で量産を試みたが上手くいかない。そこで、マダーの偽翼と、そこの女の偽翼を元に、天魔を創造できる存在になりたいと思っている」
 紗細はレイリクルの言葉に疑問を持つ。
「ローズさんが昔は偽翼の大量生産に反対していた…?」
 マダーは以前、ローズが偽翼の技術を天使に売り込みたいようなことを言っていたはず。しかし、紗細はその疑問をすぐに切り捨てた。
「何はともあれ、私の前に立ちはだかったからには、上級悪魔だろうが何だろうが消えてもらうわよ!」
 剣呑な紗細の声と共に、手のひらから悪魔浄化の光が放たれる。
「エンジェル・キュア・ライト!」
 紗細が扱える最大級の浄化術だ。
「下級天使はそんなものか」
 レイリクルは片手で光を薙ぎ払った。
「え!」
 紗細は自分の術が効かないことに驚いたが、すぐさまレイリクルへ向かって体術でたたみかける。
 蹴りが防がれ、掌底を叩き込んでもたいして効いていない。
「上級悪魔はそんなものでは滅せないと、天使界で習わなかったか?」
 せせら笑うレイリクルに、紗細は間近でもう一度浄化術を放つ。
「効かぬ」
 紗細へと手を伸ばしたレイリクルだったが、その手を頭上へ持っていく。マダーの蹴りを防いだ。
「ササメに手を出すな」
「下級悪魔が俺様に敵う訳がなかろう」
 マダーは紗細を庇いつつ、一旦退かせる。
 距離を取った二人に、レイリクルが言った。
「偽翼にはブースターの役割もある。だからお前たち元人間にも一定の力は使えるが、俺様の敵ではないな」
 獲物を血走った目で見つめる。
「大人しくその背中の偽翼をもぎ取らせろ」
 殺意を敏感に感じ取り、マダーと紗細はアイコンタクトをとる。全速力でその場を離れた。
「逃げても無駄だが、まあいい」
 レイリクルは高揚する気分の中、舌舐めずりをする。楽しませてもらおうか、と嗤った。



 紗細は自分たちの身が危うくとも、和小里からは離れがたく、近くの森の中に逃げ込む。
「ワープポイントは閉じられているわね」
 マダーだけでも悪魔界へ帰したかったが、悪魔界への道は閉ざされていた。
「困ったな。ぼく、通信機忘れてきちゃったよ。母様と連絡が取れない」
 自分たちで何とかするしかない、と思ったマダーだったが、勝てる気はしない。
「母様の技術を悪用するのは許せない! でも、どうしたら勝てると思う?」
「二人で協力すれば、上手くいくかも。何かいい技とか知らない!?」
 紗細の言葉に、マダーは母から貰った本を思い出した。ショルダーバッグから取り出す。
「母様から貰ったこの本に、何か書いてあるかも!」
 期待を込めた眼差しで紗細が本を見つめる。
 無題の本をめくると、中には「偽翼(ウエアラブルウイング)取扱説明書」と書かれていた。
「とっ、取説!?」
 紗細は驚いたと同時に落胆する。
「今それ要る!?」
「あ、巻末に「禁断」って書かれた袋とじがある。どうしよう。ナイフ持ってないよ」
「破りなさいそんなもん!」
 マダーの手から本を奪い取った紗細が、乱暴に破く。
「あ〜あ」
 ビリビリに破かれた紙を見て、マダーは嘆いた。しかし、動きが止まった紗細を不思議に思い、破られた紙を覗き込む。
「…え?」
 一瞬、何と書かれているのか分からなかった。
「何…これ…」
 大きな瞳を更に見開かせ、紗細も驚いていた。
 袋とじの中には、「エクスチェンジ」という呪文が書かれている。説明をもう一度読んでマダーはやっと理解した。
「偽翼を…交換する呪文!?」
 属性を入れ替えるなど、考えてもみなかったことだ。
 マダーより早く立ち直った紗細が早口で言う。
「嫌よ! 私は天使になりたくてなったのよ!? 悪魔じゃない! 悪魔では駄目なの! 早くあいつも妖怪も浄化でぶっ飛ばして、殿のところへ行かなくちゃ!」
「ぼくだって嫌だよ! ぼくは母様の息子になりたくて悪魔になったんだ! 天使なんて興味ない!」
 互いに呪文を使う気はなかった。あまりにも、それぞれの志に反する。
「これ以外に、何か偽翼に用途はないの?」
 紗細が本をパラパラめくり始めた。
「降参する相談は終わったか?」
 マダーと紗細に影が落ちる。レイリクルが上空に浮かんでいた。
「実験をしたい。俺様の作った偽翼悪魔とお前たち、どちらが強いかを。先ほど、妖魔に子供を殺されて憎悪が膨れあがった父親がいてな。そいつに悪魔の偽翼をつけてみた」
 レイリクルの後ろに、大人の男が現れる。尖った耳に黒い悪魔の翼を持っていた。
「悪魔らしいことしてくれんじゃん…ッ!」
 憎悪の眼差しで紗細はレイリクルを睨みつける。眼力だけで相手を威圧できたら良いのに、と思ったが、そんなものは通じない。
「俺様の偽翼悪魔はなぜかいつも意志を持てなくてな。俺様の言うことには忠実なんだが、どう改良したものか分からないのだ。お前たちの完成された偽翼があれば、この問題も解決出来るだろう」
 レイリクルが連れてきたのは、白目を向いて、よだれを垂らした中年男だった。マダーは自分以外の偽翼悪魔を見るのは初めてだったが、確かに、中年男に意志があるようには見えない。異常な表情に警戒心を強める。
 紗細は飛び上がって怒りをぶつけた。
「人間は玩具じゃないわ! あんたなんかに、天使の偽翼を取られてたまるもんですか!」
「フフフフ、行け、偽翼悪魔!」
 偽翼悪魔は紗細を目がけて飛んで行く。
 紗細は心の中で「巻き込んでごめんなさい」と呟きつつ、術に集中した。
「プリフィケーション!」
 発光する浄化の光の中、偽翼悪魔は一瞬で人魂になる。少なくともこれで、悪魔の状態からは脱した、ただ一つの魂だ。
「倒してやったわよ」
 低い声で紗細が言うも、レイリクルは笑むだけだった。
「腹の立つやつね! セイント・フレア・アロー!」
 紗細は悪魔を滅するための呪文を言った。白い炎の矢を三連発放つ。レイリクルが避ける間に懐へ入り込み、浄化術を使う。
「私が天使界へ連れて行ってあげるわ!」
「俺様は脳がもうろくするだけの天使たちに興味はない」
 レイリクルは冷たく言うと、紗細の浄化術を飲み込まんばかりの炎を出した。上級悪魔は一部の呪術を意志の力だけで行使する。
「っ!」
 やけどを負った紗細は、右半身に治癒術を施す。
「ササメ、大丈夫?」
「このくらいなら平気」
 気丈な紗細の言葉にマダーは安堵した。
「ぼくも戦いたいところだけど、実は、ぼくは悪魔の術をあんまり使えないんだ」
「そう。じゃあ、さがっていて」
 紗細はやけどを治し、レイリクルに対して身構えた。
「お前は、実力は中級天使くらいか? 傷が治ったところで、上級悪魔の俺様に敵う訳がなかろう」
「そんなのは、最後まで分からないことよ?」
 不敵に笑む紗細に、レイリクルも嗤う。
「ウイング・ブレード・ジャック」
 レイリクルが初めて呪文を唱えた。彼の悪魔の翼の一部が紗細に向かって伸びる。
 避けきれなかった紗細は、左腕を三等分に切られてしまった。
「くっ」
 慌てた紗細とマダーは、腕が地上に落下する前にそれぞれをキャッチした。
 赤い血が、止めようもなく流れている。
「これなら治癒術だけで力を使い果たすだろう」
 レイリクルの言葉に、紗細は悔しそうに唇を噛む。マダーの助けを得て、腕を繋ごうとするが上手くいかない。痛みで治癒に対する集中力が欠けた。
 紗細の左腕からは、血が止まらず流れ続けている。マダーは、出血多量死もありえると思った。
 紗細が、死ぬ?
 それは、マダーの心に、重い何かを落とした。
「殺してから翼をもぎ取るのが一番早いなら、そうするぞ」
 最後通告のような敵の言葉に、マダーも紗細も死を悟る。
「…ササメ、『あれ』やってみよう」
「何、諦めたの!?」
 怒る紗細に、マダーは冷静に囁き返す。
「違う。ぼく、前に母様に言われたことがあるんだ。ぼくは、本当は天使に向いてる魂なんだって。でも、どうしても息子に欲しくて天使の偽翼じゃなくて、悪魔の偽翼をつけたって」
「天使に向いている魂に、悪魔の偽翼を…? あんた、私と初めて会った時に、悪魔の見込みのある魂だったって言ってなかった?」
「…ごめん、あれ、ちょっとウソ。ササメ、悪魔界が快適って言ってたよね? もしかしたら、悪魔に向いてるのかも」
「だからって…!」
「悔しいけど、このままじゃあいつに敵わない。だから、賭けよう」
「…さっき倒した偽翼悪魔、憎悪が膨れあがった父親だって言われていたわよね。あの廃墟の教会で出会った時、私は、妖怪に殿の視力を奪われたせいで、憎悪を抱いていたわ。でも、偽翼天使になれた…」
 あの時、紗細が天使になるための条件を全て満たしていたとは考えにくい。
「悪魔の素質が、あるかもしれない。もしかしたら、ぼくよりも」
 マダーは悪魔になってからの数年、ただ遊んで暮らしていた訳ではなかった。修行もしてみたが、思うように悪魔の術を使いこなせなかったのだ。
 大悪魔の息子なのに、と外聞も気にしたが、ローズがそんなマダーを許してくれていたから、それに甘えていた。悪行をして悪魔力を上げれば、もしかしたら今の状況とは異なっていたかもしれない。けれど、マダーの人間の心は、悪魔の行う悪逆非道な行為を善しと出来なかった。
 マダーの決意のこもった瞳に、紗細は観念する。
「最善かどうかは別として、やれることは、何でもやってみるしかなさそうね」
「ぼくたちの偽翼を、交換しよう」
「ええ」
 互いに背徳感はあった。悪魔が天使に、天使が悪魔になっては、この世の断りの一部が崩壊する。しかし、今のままでは、勝てない。
 マダーは母を裏切ることになるような気もしたが、取説をくれたのは他ならぬローズだ。その意味を考えた。
「レイリクル! 少し時間をくれないかな。きっと面白いものが見られるから」
 面白いもの、と言われて、レイリクルは攻撃を待った。
「力の差に絶望した訳ではなさそうだな。良い。一度だけなら待ってやろう」
「ありがとう!」
 敵に礼を言ってどうする、と紗細はつっこみたかったが、止めておいた。大人しくマダーと背中合わせになる。
 マダーと紗細は一緒に呪文を唱えた。
『エクスチェンジ!』
 灰色の光が二人を中心に生まれる。
 マダーと紗細は、背中に力が集まるのを感じた。熱い衝撃の中、おのおの、自分の力が変わったことを自覚する。
 マダーは光が収まる間中、素の自分に戻ったような感覚を味わっていた。
 消えた光のあとには、偽翼天使のマダーと、偽翼悪魔の紗細が誕生する。偽翼が変わった以外に、マダーの頭の上には天使の輪が浮かび、紗細のお尻近くからは悪魔の尻尾が伸びていた。外見上の特徴が入れ替わっている。
「確かに面白い! 偽翼とは、交換が出来るものなのか!」
 レイリクルは興奮した。天魔をこの手で生み出せるだけではなく、入れ替えすら出来るシステムだったのかと。
 一方紗細は、冷静に右こぶしを握り締める。
「…偽翼はブースターの役割もあるとあいつが言っていたけれど、さて、私の力はどれほどのものなのかしら?」
 今にもレイリクルへ飛びかからんばかりの紗細の肩に触れ、マダーが制止する。
「待って! 先に治癒術で左腕を治さないと!」
「じゃ、治して貰っている片手間にあいつを攻撃してー…」
 紗細がまくし立てる間に、左腕に温かみを感じた。目をぱちくりさせる。
「治ったよ」
「早!?」
 驚く紗細は左腕と左手を見て、握力まで確認した。
「今、あんたどうやったの!?」
「どうって…くっつけって、治れって、願っただけだよ」
「上級天使か!? それ結構高レベルよ!?」
「そうなの?」
 疑問符を思い浮かべていそうなマダーを見て、紗細は気づく。彼の清冽な気配に。自分が天使だった時とは比べものにならないほどの天使力を感じた。これなら、いける。
「マダー、あんた、天使に向いてるどころじゃあないかもよ?」
「ササメこそ。凄く邪悪な気配出してるね。ぼく、気分悪くなってきた」
「何か失礼だな!?」
「小芝居はいい。さっさと俺様の道具になれ!」
 レイリクルが黒い光を放って攻撃を仕掛けてきた。
「だーーァれが! なるもんですかーッ!」
 紗細は悪魔の偽翼を自在に操り、黒い光を避けつつレイリクルに近づく。
「マダー、何か私が好みそうな悪魔の邪術知らない!?」
「え? ええ〜? 無茶振りするなあ…。えっとね、悪魔界の業火の力を借りる『デビル・ブレイズ・ファイア』とかどう? ぼくは使えないけど」
「食らえ! デビル・ブレイズ・ファイアーッ!」
 一発で赤黒い業火を放出した紗細は、レイリクルの足元を焼き払う。
 マダーは呆気にとられて、間抜けな声を出す。
「すご〜」
「確かに凄い! 力が湧き出るみたいだ! しかも何か身体も軽い!」
 体術でレイリクルを圧倒する紗細は、彼を防戦一方に追い込んだ。
「俺様はこれしきでは負けん!」
「私もこれじゃ終わらねえっ!」
「…ササメ、ちょっと性格変わってない?」
 マダーの呟きは、紗細の邪悪な声にかき消される。
「悪魔が悪魔を倒す時って、消滅させるんでしょ? 覚悟は出来た?」
 不敵に笑う紗細に対して、レイリクルは余裕を見せる。
「先ほど紹介したのは一匹だけだが、実は俺様の偽翼悪魔はたくさんいてな」
 レイリクルの背後に見え始めた、複数の禍々しい気配に、マダーも紗細も気づいていた。
 マダーが目視出来るほどまで近寄ってきた、レイリクルの偽翼悪魔の数は十数人。数では不利だが、マダーは不思議と負ける気がしなかった。
「…マダー。私もまだ使えない上級天使の浄化術は『ホーリー・グローリー・ソウル』っていうのだけれど。使えない、とは言わせないよ」
 マダーは頷いて、レイリクルを飛び越し、偽翼悪魔たちの真ん中へ飛び込んだ。
「ホーリー・グローリー・ソウル!」
 マダーの一言で、周囲が浄化の光に包まれる。清らかな白い光は、意識のない偽翼悪魔たちを一瞬でただの白い魂に変えた。
「これで、残りはあんた一人ね」
 怜悧な紗細の声をものともせず、レイリクルは叫ぶ。
「俺様をみくびるな! 何のために偽翼悪魔を連れてきたと思う? 魂を壊して、俺様の力にするためだ!」
 レイリクルは、マダーに浄化された魂を一瞬で灰にし始めた。先ほど紗細が浄化した魂も一緒に。
「最ッ低!」
 紗細が罵った。そんな一言の間に、レイリクルの悪魔力は一瞬で上がる。
「何てやつだ…。人間の魂を何だと思ってるんだ!」
 非道な行為に、マダーは怒りに満ちた声をあげた。
「俺様の道具にしかすぎん」
 そう答えたレイリクルは、両手のひらに黒い光を溜めだした。マダーと紗細に向かって、黒い光が放たれる。マダーは何とか避けたが、紗細には直撃した。
 マダーは紗細の火傷を一瞬で治す。
「許さない!」
 怒りに任せて飛びかかろうとするマダーに、彼女が叫ぶ。
「待って! マダー! ショルダーバッグに入っている、袋とじの紙の二枚目を見て!」
 言われてショルダーバッグを漁る。先ほど破られた禁断のページ。その二枚目。
「…!」
 マダーは書かれている内容に目を見開いた。また呪文が書かれている。
「マダー、まだ手はあるよ」
 そう言いつつ、紗細がマダーへと近づく。
「覚悟しろ、偽翼の玩具たち! 半身を削り取ってやる!」
 黒い光が二つ放たれた時、マダーは左手を、紗細は右手ぼくリクルに向けていた。
『ヘヴン・アンド・ヘル・グレイボール』
 マダーと紗細の声が重なり、灰色の球体が生まれた。二人の天使力と悪魔力が合わさった巨大な球体は、レイリクルが放った黒い光を飲み込んだ。
 それを見て逃げようとしたレイリクルに追従し、灰色の球体が直撃する。膨大な熱量が凝縮された球が弾けた。
 轟音とレイリクルの断末魔の声が鳴り響く中、マダーは相手が悪魔とはいえ、一つの命を奪ったことに少し罪悪感を感じる。
「天魔合体技…か」
 紗細が感情のない声で呟いた。
 攻撃が当たったレイリクルは魂となってしまい、空中に浮遊し始める。
 灰色の魂を睨む紗細は、これは普通の魂と同じものか、と疑問に思いつつ、提案した。
「さて、これを悪魔の私が消滅させるか」
「天使のぼくが天使界に送るか」
「もう一つ方法があるよ」
「え?」
 マダーが疑問の声をあげた時、地上では、妖怪たちが猛っていた。人間たちの悲鳴が聞こえる。
 紗細は悲痛な声を出す。
「殿たちが危ない!」
 和小里へ全速力で飛んだ二人だったが、人間たちの劣勢は明らかだった。鎧武者たちの陣形にまで、妖怪の手が伸びていた。城のすぐ前だ。
「ぼくがヨウカイを浄化させる!」
 マダーが地上へ急降下する。地上では、白い妖怪が舞い降りたと騒ぎになった。
 その声を聞き、今や悪魔の紗細は戸惑った。自分も戦いたかったが、下へ降りては行けず、マダーの発する浄化の光を見ているしかない。
 黒い翼の自分が関わってはいけない、そう、強く思った。それにマダーの力を信頼していた。それでも、もしマダーだけで対応出来ないことがあれば、悪魔であっても加勢をしなければ。紗細は固唾を呑んで見守った。
 紗細の心配をよそに、マダーは瞬く間に二十匹近くの妖怪をただの魂へと変える。彼は、救世主との人間の声に驚きつつも、何も言わずその場を離れた。
「ふわ〜。救世主だって。びっくりしたよ」
 照れくさそうに笑うマダーに、紗細は微笑む。
「和小里の人たちを助けてくれて、ありがとう」
「えへへへ…」
 紗細に礼を言われて、マダーはますます照れた。
「あ、紗細の家族は無事かな?」
「多分ね。私の家の方向からは、火の手が上がっていないし…」
 ことが無事に収まったと感じた武将たちは、陣形を解いてそれぞれの屋敷へ戻る。一般人たちも、治療を受けるための施設へ移動したり、自分の家へ帰ったりと動き始めた。
 マダーと紗細は、殿がいる城の屋根へ移動する。
「…この姿では、私、出て行けないな。この際、誰が治すかは些末なこと。マダー、お願い。殿の両目を治して、あのお方の目に光を灯して!」
 懇願する紗細に、マダーは首を振る。
「それは自分でやりなよ。そのために偽翼を受け入れて天使になったんでしょ?」
「でも、もう取り替えっこしちゃったし…」
「またエクスチェンジすればいいじゃん」
 軽く言うマダーに、紗細は息を呑む。
「……出来るの?」
「呪文の一つなら、出来ると思う」
「でも、こんなおおごとが、何の副作用もなしに何度も出来ると思えないよ」
「ササメは自分でトノの目を治してあげたいんでしょ?」
「それはそうだよ。エクスチェンジして、私に副作用とか何かあるのは構わない。でも、マダーに何かあったら、嫌だよ」
「大丈夫。人助けになるなら、ぼくは平気。それに、ぼくに重大なことが起きるなら、母様はエクスチェンジのことは知らせないと思う」
「お母様のこと、信頼しているのね」
「もちろん!」
 晴れやかに笑うマダーに、紗細も少しだけ微笑めた。迷いに揺れる瞳を閉じ、呪文を使う決心をして目を開く。
 エクスチェンジの灰色の光に包まれる中、二人は元通りになった。
 偽翼悪魔のマダー、そして、偽翼天使の紗細へと。
「…ちょっと天使力が下がった気がするわ…」
「ぼくも悪魔力下がったかも…?」
 それぞれ感想を言い合い、目を合わせる。
「どうしよう、治癒術ちゃんと使えるか不安になってきた!」
 狼狽する紗細に、マダーは彼女の肩に触れ、落ち着かせようとした。
「だ、大丈夫! 今まで通りやれば出来るよ! この日のために、頑張ったんでしょ?」
 彼の言う通りだった。この日のためだ。殿に恩返しをするためだけに、悪魔の力を借り、天使になった。人間であることをやめたのも、天使界で昼夜を問わず修行したのも、全ては殿のため。
「紗細の力で、治癒の奇跡を…!」
 マダーに鼓舞された紗細は決意し、殿の気配を探す。
 殿は、祝杯の宴には加わらず、一人自室にいた。手酌で酒を飲んでいる。
 大きく開かれた窓から差し込む月の光を一身に浴び、閉じた眼で光を肌で感じるのが最近の喜びだった。例え暗闇の中でも、光は感じられるものだと。
 ふと、鳥が羽ばたくような音がした。
「こんばんは」
 次に聞こえた女の声に、殿は杯を置き、手探りで刀を引き寄せた。
「…誰だ?」
「私は天使です」
「てんし…?」
「今はこの国で少数派の宗教の生き物です。あなたの両目を治しに来ました」
「なぜ、そのようなことを?」
「あなたに恩義があるからです。私は、以前、あなたに助けて頂いたことがありますので、ご恩返しに参りました」
「助けた…?」
「そのまま動かずにいて下さい」
 静かだが力の籠もった言葉に殿は動けなかった。
「アクセレレート・ヒーリング」
 紗細は渾身の力で治癒術をかける。
 殿の身体を温かいものが駆け巡り、頭の中で白い光が破裂した。
「急がず、ゆっくり、目を開いてみて下さい」
 恐る恐る言われた通りに目を開く。月光の下、おとぎ話の天女のような微笑みをたたえた少女がいた。見覚えがある。
「……そなたは」
「その節は、ありがとうございました」
「てんし、であったのか?」
「いいえ、後から天使になりました。私はもうこの国の民ではございません。これにて、失礼致します」
「待て!」
「さようなら。どうか、お健やかに。いつまでも、お慕いしております…!」
 殿が名も告げぬ少女を捕まえようと手を伸ばす。殿の手を避け、涙を見られる前にと、紗細は大きく羽ばたいた。
 これが最後、と紗細は殿を両目に焼きつけ、破顔した。
 あなたがこの笑顔を覚えていてくれれば、充分。
 それだけで、この先、何があろうと生きていける。
 殿の手がもう一度紗細へと伸ばされた時、紗細は羽ばたいて空へと飛んだ。
 マダーは城の屋根の上でその姿を見送る。
 紗細は、目的を果たしたのだ。マダーは安堵した。
「そういえば、レイリクルの魂がまだ浮遊したままかな? ああ、あと、母様に言われてた、手下作りどうしよう…。ぼく、手下なんていらないけど」
 呟きながら、満月の下、レイリクルの魂を探す。城から森の上まで飛んだが、魂は見つけられなかった。
 諦めかけた時、後ろから声がした。
「探し物はコレ?」
「ササメ!?」
 マダーが振り向くと、紗細と灰色の魂が目に入る。彼女は、魂の尾の先をつまんでいた。
「こいつはこの国の妖怪・妖魔じゃないけど、上級悪魔の魂だから、悪魔のあんたが魂を掴めば、手下に出来るんじゃない? あと、悪魔力も上がるんじゃない?」
「そっか! レイリクルでいっか! …でもいいの? 天使が天使界に送れば、天使力が上がるのに」
「いいの。天使界に帰ろうか迷っているから」
「どういうこと?」
「私、悪魔向きみたいだし、天使をやっていていいのかなって」
「ササメが天使でいたいなら、いいんじゃない? ぼくは悪魔がいいって思うし」
 さらっと言うマダーに対し、紗細は苦笑する。
「そう簡単なものかなあ。あと、天使界に送って偽翼エクスチェンジのことがバレたら困るわ」
「…そうだね。ぼくの手下にして、エクスチェンジのことは黙っててもらおうか」
「口封じに消滅させる手もあるけどね」
「それはいくらなんでも可哀想だよ」
「あそう」
「じゃ、キャッチ・ザ・ソウル!」
 マダーが灰色の魂を素手で掴み、浮遊魂は実体化した。
「れち!?」
 薄い灰色の魂は、黒々した大きな目に、一本角を生やした生き物になる。
「何? 今何か可愛い声が聞こえたんだけど私の気のせい?」
「ぼくにも聞こえた」
「まさか俺様、マっちに魂掴まれたれち?」
 魂の尻尾のようなものを素早く動かし、自分の全身を確かめるようにレイリクルだったモノが喋った。
「やっぱり気のせいじゃない! 何か可愛い声で語尾がれちの生き物が誕生した!」
「ええ〜?」
 驚く紗細と困惑するマダーをよそに、小さなレイリクルは胸らしきところを張る。
「ふふん。俺様のかっこよさに驚いてるれち?」
「かっこ…よさ?」
 疑問の声を出す紗細だったが、レイリクルは自分に陶酔していて気づかないようだった。
「へぇ〜。ぼく、魂を掴むの初めてだけど、こんなふうになるんだ〜」
「れちちちち!」
「それ笑い声かな!?」
 紗細がつっこんでも、レイリクルは笑い続けるだけ。マダーはもの珍しそうにレイリクルを眺める。
 そして、大切なことを思い出した。
「レイリクル、お願いがあるんだ。ぼくとササメが偽翼を交換したことは、秘密。誰にも言っちゃダメだぞ」
「分かったれち!」
 素直に返事をするレイリクルに、紗細は我慢ならず大声をあげる。
「レイリクル変わりすぎだろ!」
「あははは、いいじゃん、これで解決!」
「いいけども!」
 にっこり笑うマダーへ、紗細は引きつった笑みを返した。引きつり笑みも、やがて満面の笑顔に変わる。
「…ありがとう、マダー。何もかも、あなたのおかげよ」
「ぼくはたいしたことしてないよ」
「ううん、あなたがいなかったら、私の願いは叶わなかったわ。本当に、ありがとう」
「じゃあ、お礼とその笑顔はもらっておくよ」
「それじゃあ、また、いつかどこかで」
「うん、またね」
 きっと、会う予感がした。
 マダーはまた会いたい、と願った。願えば叶うと思っている。
 誰でもいい、家族になって、と願った自分のもとに悪魔の母が来たように。神や天使の力を借りたがっていた紗細が自分と会ったように。天使でもいい、紗細にまた会いたいと、笑顔を見たいと思っていれば、きっと。
「…で、ごめん、私はどうやって天使界に帰ったらいいのかしら?」
「あ、ぼくも、帰れないや」
 二人は無言で顔を見合わせた。
「…でも、しばらくしたら、母様が心配して迎えに来てくれると思うから、もう少し一緒にいようよ」
 屈託なく笑うマダーに、紗細は彼の背中の翼が白く見えた。疲れているのかな、と感じたが、天使のように微笑む様子は、悪魔の偽翼が不釣り合いなほど輝いていた。
 ある意味、悪魔に魅入られたか? と、紗細は思いつつ、「もう少しだけね」と返す。
 そして、朝焼けが始まる空を、二人は穏やかな気持ちで見つめるのだった。



 ●2016/08/11 up

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