悪夢の残滓と希望の片鱗





 天界の大騒乱から五百年の月日が過ぎた。
 既に悟空は玄奘三蔵に助け出されていたが、はまだ昏い土の中だ。
 「見えてるか、那咤。が二人と出会うぞ」
 観音が那咤に話し掛けた。当然の如く、那咤からは答えが返らない。
 それでも構わず続ける。
 「……これで、まず三人揃ったな」
 が無事に土の牢屋から出たことに、安堵した。
 蓮池の水面には、が大きく映っている。あの頃と何ら変わりない姿で。自分も、那咤も、見た目は全く変わっていない。
 「も悟空も、これから大きくなるな。下界の時間の流れは速い。不老の術なしじゃ、あっという間だ」
 それはそれで、楽しみだと観音は思った。
 那咤の車椅子に触れ、二郎神が言う。
 「観世音菩薩、そろそろ戻りましょう」
 「…ああ」
 二郎神は那咤を連れて行こうとした。観音は呼び止めて、瞳に色のない那咤の前に立つ。
 「そのうち、大きくなったアイツらが、お前を迎えに来るだろう。その時まで、ここに居ていい。けどな、時が来たら、自分の足で歩いて行けよ。今度こそ、自分の意志で」
 そう言った観音は、自室へ戻った。



 夜。時間が経つにつれて静けさが増すばかりの暗がりで、李那咤は目の前に現れた光に気付いた。段々眩しくなるその光に、思わず手を動かして遮る。
 「那咤」
 光の中から懐かしい声がした。とても聞き覚えがある。あの、涼やかな愛しい声。
 「那咤!」
 今度は別の声が那咤を呼んだ。この声も知っている。
 「、悟空!」
 那咤は石の椅子から立ち上がった。驚きの余りに目を見開いて、高まる鼓動を感じていた。もう一度彼女たちの名前を呼ぶと、光が途切れた。
 そこには、何も変わらない、那咤の見知る二人が居た。
 「那咤、ひっさしぶりー!」
 ハイタッチを求めてくる悟空に、那咤は笑顔を返す。互いの手を打ち合わせる音が大きく響いた。
 「ああ、久し振りだな! また会えて良かった」
 「俺も。また会って、一緒に遊びたかったんだ。な、?」
 悟空がを振り返り、同意を求めた。
 「そうね」
 は微笑んで那咤に近寄る。
 「…
 那咤はの名を呼んだ。近付くの腕を取り、引き寄せる。抱き留めて、囁く。
 「
 「那咤、さあ、遊びましょう」
 一度だけ抱擁に応えたは、すぐに離れた。悟空が先に駆けて行き、が後を追う。那咤は遅れまいと走った。
 「待てよ、そんなに急がなくてもいいじゃんか!」
 「駄目よ。時間がないもの」
 「時間?」
 那咤は疑問の声を上げたが、から答えは返らなかった。
 気が付けば、那咤は草原に立っていた。
 「ここは…」
 辺りを見回すと、一気に記憶が甦った。
 「なあ、ここから近いところに木苺がなっている場所があるんだ。すっげーウマいから、食べてこーぜ」
 那咤の提案に、も悟空も喜んだ。
 木苺を手当たり次第食べて、小鳥の巣を見て、麒麟の形をした崖を観て、蟠桃園にこっそり入って上質な桃をも食べた。腹ごなしには川遊び、鬼ごっこ…と思い切り遊んだ。
 全員が、これ以上ないくらいの笑顔だった。
 森の一角。桜の大木に背を預け、疲れた身体を休めた。休憩のつもりが、桜や目の前の蓮池を眺めていると眠気が襲ってきてお昼寝タイムとなってしまう。
 心地良い眠りの縁で、那咤は夢の中でも眠れるのだな、と思っていた。
 那咤がふと目を覚ますと、隣に居なかった。
 それだけで背筋が泡立ち、心臓が停まる気がした。すぐに立ち上がって、彼女の名を叫んだ。
 「ここよ」
 頭上からの声に、那咤は桜の木を見上げた。が幹の上に立ち、遠くを見ていた。
 「、何してるんだ」
 「遠くへ行こうと思って、先を見ているの」
 「遠く? どうして? ここに居ればいいじゃないか!」
 こんな楽しい時間を捨てて、はどこへ行こうというのだ?
 「うん、でも、私の住む世界は天界ではないわ」
 「…下界に戻るのか? そんなの無理だ」
 「無理じゃないわ。だって、私たち、もう下界に居るもの」
 「!!」
 …知っている。那咤は、吐き気と共にその現実を思い出す。
 「これは夢。貴男の夢。楽しいばかりの夢でも、それだけでは終わらないことを貴男は感じている」
 「今の俺は動けないから…」
 「違うわ。動こうとしていないだけ」
 「動けねえよ! だって、目が覚めたら、俺が生きていたら、お前たちを…!」
 殺さなければならない。
 …なぜ?
 あの忌まわしい父親だ。あの男が、那咤に悟空を殺せと命じた。一度は従ったが、逆らった。友達を殺すのはご免だ。かといって、父親に刃を向けることも出来なかった。
 だから。
 「だから、俺は、自分を殺そうって、思ったんだ」
 全てを思い出した。嫌悪感が那咤を蝕む。
 「でも、貴男は生きている。私たちにはそれで充分。私は下界で生きていくけれど、那咤を見捨てたりしない。必ず、『本当に』会いに行くわ」
 の言葉に、那咤は顔を上げた。彼女は微笑んで、下に飛び降りる。すぐさま、那咤に手を差し延べた。
 那咤は、それこそ夢見心地の気分で手を取る。右肩に重みを感じて振り返れば、悟空の手が肩に乗っていた。自分より大きな悟空に目を瞠る。
 驚いてを振り返ると、彼女も大きくなっていた。相変わらず長い髪に、成長した四肢。大きな金色の瞳は那咤を映している。五つもあった枷がない。服は、那咤の知らないものだ。
 「、悟空?」
 「待っていてね」
 そう言ってと悟空は、那咤の目の前から去っていった。蓮池より遠くへと行く二人を追い掛けたかった。しかし、足が動かない。
 「な、何でだよ! 動けよッ!! 俺の足だろ!?」
 那咤の意志に反し、動けないまま二人の背中を見るしか出来ない。何という、歯痒さ。悔しさ。待つだけなんて。
 恵岸が言っていたことを思い出す。俄には信じられず、那咤はその事実を受け入れなかった。
 父上は死んだ—…。
 那咤を縛る父親が居ないのなら、もう動いてもいいはずだ。守られるのではなく、を守りたい。助けられるのではなく、助けになりたい。
 でも、本当に?
 あの怨念の塊のような男が、本当に死んだのか? 暗闇から現れて、那咤を闇に引き摺り込みはしないか?
 また悟空を殺せと言われないだろうか。もしかしたら、も殺せと言われるのでは…。
 那咤は恐怖に駆られた。
 動かない両足を忌々しげに見ると、無数の黒い鎖が彼の足に絡み付いていた。



 夜。もうすぐ日付が変わる。牢から解き放たれたは、ちゃんと眠れているだろうか。もし今から様子を見ても、下界では何日経っていることだろう。
 に送った花は、届いただろうか。
 気になった観音は、蓮池に来ていた。下界を映そうと水面に近寄った時、目を疑った。
 一番大きな蓮が枯れている—…。
 この短時間で枯れることなどありえない。観音は池に入り、蓮に触れた。
 「そうか、蓮の化身のために散ったか」
 観音は願う。
 と悟空の二人で那咤を迎えに来る日が、一日でも早いことを。










**何で観音の出番多いの。←こゆめシリーズ。
 そして、またも長いので、ふつーに短編で通る…。
 当初の目的からハズレちゃった感満載のこゆめシリーズは、これで終わりです。

 前にも書きましたが、天界は月や太陽が見えないらしいのですよ。…夜あるの? と思いましたが、あることにしておいて下さい。
*2009/09/14up

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