8:重責 an important duty 5





 夕焼けが始まる前に、たちは漸く東伯候と落ち合うはずの草原へ辿り着いた。
 煙は長い間出ていたが、到着の十分前ほどに忽然と消失。
 どうやらただの演出だったようだ。東伯候たちが爆発などに巻き込まれた訳ではなさそうだが、見渡しても人っ子ひとり居ない。
 それは、が早くに気付いていた。この付近には、この場の一行以外の気を感じ取れない。
 受は訝しそうに呟いた。
 「煙の元はこの辺りだったのだろうか? 焼けた跡も何もないな」
 焦げるような臭いもしないので、周辺も見回る必要がなさそうだ。
 「黒麒麟が居ないのが、最も怪しい。東伯候だけ連れて避難したとも考えられるが…」
 聞仲はを見た。彼女は首を振る。黒麒麟の気配はしない。
 兵士たちのざわめきと、風になびく葉音が重なる。何の異常もないのが、異常だ。襲撃すらないことに、多少の油断が出来つつある。兵士たちの醸し出す空気から、聞仲は警戒を強めた。
 は目前の受の背中を見つめつつ、考える。
 (空間系? 大勢を一気に移動させるだけの力? …人質か!)
 しかし、黒麒麟までも囚われたのだとしたら、今度の敵も相当な力の持ち主だと思える。何の痕跡もなく、東伯候一行を―…。
 待て。本当に?
 まず、本当にここに東伯候たちが居たのか?
 そう、確かに、取り決めた通りのポイントであるし、白煙が立っていたのもこの辺りと検討づけてやって来た。約束の時刻も近いため、東伯候たちがここで待っていた可能性は高い。
 となれば、ことは最悪の方向へ考えなければならない、とは感じた。
 「子受様、聞太師、兵を一人、姜の邑へ遣わして下さい。東伯候が姜を発ったかどうかを確かめるために。恐らく、ここに居たとは思いますが、念のためです…」
 受が頷く。
 「そうだな」
 「その必要はない」
 頭上から降って湧いた聞き慣れない男の声に、全員が上を向いた。
 「東伯候一行は俺が預かっている」
 鼠のような生き物に跨がった男の顔を見て、聞仲が叫ぶ。
「安貘吾(あんばくわ)!」
「久しいな、聞仲。お前の顔を見るのは、これで最後にしたいよ」
 安貘吾と呼ばれた男の情報をは思い出す。
 動物の貘が本性の妖怪仙人だ。
 聞仲から聞き及んでいた安貘吾の武器は、短剣だったはず。しかし、彼は今、大きな刷毛のようなものを持っていた。刷毛の先は、黄色。
 浮いてる鼠のようなものは、霊獣だろう。
 安貘吾は、薄灰色の髪をなびかせ、太い腕を振り上げた。
 何もない空間を、ひと刷毛掃く。
 黄色に塗られたその場に、数人の顔が浮かんだ。
 「東伯候!」
 受の悲痛な叫びに反応してか、東伯候が口を開いたが、声は受たちに届かなかった。
 は東伯候の唇の形から通訳する。
 「子受様、聞太師、刷毛にお気をつけ下さい、と仰っています」
 受は安貘吾に嚇怒する。
「東伯候たちには何の罪もない。今すぐ解放しろ!」
「傷つけはしないさ。お前たちが逃げないための大切な人質だからな」
「私たちは逃げも隠れもしない! 因縁があるのは私たちだけのはずだ! 関係のない者たちを巻き込むな!」
「それならば子受、お前が人質になるか?」
せせら笑う安貘吾に、受は毅然と頷く。
「私一人で済むならいくらでも」
「子受様、いけません!」
聞仲が注意するが、受はひかなかった。
は受の態度に内心焦っていたが、それより、鼠のような霊獣の頭を覆うものが気になっている。白色の器…まるでパレットのようなデザインに、黄色の他に刷毛に使う色があると想定した。は目一杯跳躍し、黄色に塗られた箇所に触れようとしたが、安貘吾と霊獣に阻まれる。パッと目にしたパレットの中身は、赤、青、黄、透明の色だった。
、余計はことはするな。それとも、お前もこの中に入るか?」
「…東伯候たちとの解放と引き換えなら、私が人質になるわ」
「お前だけでは殷を揺さぶる人質になれないよ。子受と一緒にだ」
「…一緒なら構わないわ」
敵の力は未知数だが、聞仲がいればこの男を倒すだろう。しかし、倒せても、あの黄色の空間から人質を助け出せるとは限らない。術者が死んで閉じるタイプなら、永遠に出られなくなってしまう。
「安貘吾。お前の狙いは子受様より、この私のはずだ」
睨みを利かせながら聞仲は言った。その視線にやや気圧されつつも、安貘吾が口を開く。
「そうとも、お前を倒せば、打倒殷はやりやすくなる。それに、蓬左様もお前との因縁が終わってお喜びになるだろう」
「行蓬左が私を憎んでいるのは知っている。私の大切な殷を壊したいと思っているのもだ」
「それだけではない。そこの娘―…も邪魔だから消させて貰う。最近お前たちは師弟関係となったそうじゃないか」
宮中のことを知り得る耳を持つ情報網はどこだろうか、とは考えながら喋る。
「まるで聞太師との繋がりで私を消そうとしている口ぶりだけれど、白髪の男は関係がないのかしら?」
「……それは蓬左様に聞け。俺を倒せたら、だな」
にぃっと嗤った安貘吾は、刷毛を振り、透明色の液体に先をつけた。薄茶色の刷毛先に、続いて赤色をつける。
「赤は攻撃色ね?」
は見当をつけて言ったが、安貘吾は嗤うだけだった。
聞仲が禁鞭を振るわんと右腕に力を込める。
「聞仲、禁鞭を捨てろ。さもないと、俺は亜空間の中に閉じ込めた東伯候たちを攻撃するぞ」
「………」
聞仲は右腕の力を抜かなかった。
「東伯候たちがどうなってもいいと?」
聞仲の態度に安貘吾が嘲り混じりの声を出す。
「聞仲、禁鞭を下においてくれ」
そう言ったのは、受だった。受の頼みで、聞仲は禁鞭を地面に置く。
「子受、。お前は聞仲から離れてこちらへ来い」
霊獣が地面に降り立つ。安貘吾は降りて刷毛を振りかざした。
「両手を頭の後ろに置き、地面に膝をつけ」
両者は言われた通りにする。
安貘吾がまた刷毛の先の色を黄色に変えた。
「三人とも、そこを動くなよ」
刷毛は空間を四角く切り取るように、黄色に染まる。と子受は黄色く塗られた。
気持ち悪い感触がの身体を走り抜けた時、目の前が歪み、空間把握能力が一瞬狂う。
しかし、すぐ正常に世界を認識した脳が索敵を開始する。
現実世界と乖離した亜空間では、目視出来る場所に受、そして遠くに東伯候や兵士、黒麒麟がいた。東伯候と黒麒麟の状態に軽く目を細める。
「受…子受様、大事ないですか?」
「ああ、大丈夫だ。は?」
「平気です。それより黒麒麟さんが…」
の言葉に受が横倒れになっていた黒麒麟を凝視する。黒麒麟は氷のような輪っかで四肢を拘束されていた。東伯候も同じである。兵士たちの中にも、何名か氷の輪を付けられていた。
「黒麒麟!」
「子受様、私が東伯候についていながら、このような事態…申し訳ありません」
「いい、それより、これは…」
黒麒麟に駆け寄ろうとする受を、は引き留めた。黒麒麟の後ろに邪悪な気配を感じる。
「後ろに隠れてるヤツ、出てこいよ」
彼女の口から、思わずガラの悪い言葉が出た。
東伯候の手前、丁寧なキャラで護衛長を務めたかったが、出てきた男から放たれる悪寒を伴う邪なオーラに気が立ってしまった。
すぐに感情をコントロールし直し、続ける。
「隠れても無駄よ。兵士たちが怖がっているし、私は気配を読めるわ」
「そうか。それならば、ご対面といこうかな」
言いながら出てきた男は、頭部が熊のような出で立ちだった。
「妖怪仙人か妖怪道士か知らないけど、次から次へと…しつこいわね」
「人間の方が良かったか?」
「……どっちも嫌です!」
せせら嗤う相手に、は嫌気が差した。
しかし、そんな感情とは別に事態を把握するべく脳を動かす。
黒麒麟を拘束しているのはこいつの宝貝の仕業だろう。
先ほどの刷毛にはすぐ対策が思いつかなかったが、氷使いならいくらでも対処のしようがある。
「さて、子受、、お前たちを拘束しようか。お前たちは大切な人質だ」
熊男の両手首のリングが発光する。そこから冷気が漏れていた。
は熊男の情報を嫌々思い出した。聞仲から聞いていた話では、安貘吾と同様に行蓬左の弟分にあたるはずだ。この男も聞き及んでいた昔の宝貝と違う。名は、熊発冥(ゆうはつめい)。
「あなたは、熊発冥で間違いないわね?」
「そうだ」
「それなら、手加減しなくてもいいわね」
「俺を攻撃するなら、東伯候と黒麒麟の氷の輪を狭めて、千切るぞ」
「ああ、それはよろしくない」
は一旦は大人しくしようと地に両膝をついた。
「待て! 捕縛するなら、私からだろう」
受がたちの間に割って入ってきた。
人質が増えるだけじゃん、とは思ったが突っ込まなかった。受は時間稼ぎをしてくれているのだと察したからだ。
「どちらが先でも構わないが……、まあ、いいだろう」
熊発冥の両手首のリングが再度発光し、広げた両掌の間に氷の輪が出来た。氷の輪は浮遊し、受の頭上まで移動する。そして、受の肘あたりまで来ると、輪が狭まり拘束してしまった。
これで人質は、拘束された受と、黒麒麟と、東伯候。そして、東伯候の兵士数名。東伯候の兵士は、全体でおよそ百名ほど。
は分の悪さに舌打ちしたくなった。
聞仲が外で頑張って、この空間から出してくれたら、多少は風向きが変わるだろうが…。



「中は発冥に任せて、俺はお前を倒そうか」
安貘吾は素手の聞仲を見て、嗤い顔を消した。
「あの中では、発冥の宝貝で東伯候と黒麒麟を拘束している。子受ともすぐに捕まえる。お前が逆らえば、東伯候から順に、その兵士たちまで殺すようになってるから、動くなよ?」
無言の聞仲は、安貘吾がパレットの右へ刷毛を滑らせ、そしてその隣へと移動させたのを見た。
刷毛先の色は赤へ変わっている。
聞仲は先ほどが上へ飛んでパレットの中身を見たことに気付いていた。
恐らく、一連の動作から見て、一番右が刷毛の色を消すための場所。そして、隣が攻撃色の赤。その右が、黄色。空間へ干渉する色。ではその右…パレットの一番左は何であろう。パレットの広さからして、残るは一色くらいと考えられる。
「殷の生き字引よ、これでさよならだ」
刷毛を振り下ろした安貘吾は、聞仲がこちらを睨むのも構わず、嗤った。
赤い色を撒き散らし、刷毛は聞仲へと迫る。



には亜空間外の声が聞こえてきていた。
聞仲もピンチだ。
一撃でやられるとは思えないが、相手の新しい宝貝の威力は未知数。
どうやら、こちらの声は外に聞こえないが、外の声は聞けるらしい。
安貘吾がうっかり熊発冥の宝貝の弱点でも喋ってくれればいいが、そんな都合の良いことは起こらなかった。
ただ、亜空間の中は外の視界が分かる場所が二箇所ある。たちが入ってきたであろうすぐ側の黄色い空間と、東伯候の近くの黄色い空間。
そこから出られるだろうか?
否、出口兼用ならば、そのまま放っておくことはない。
但し、熊発冥がここにいる以上、出る方法があるはず。
はそれを推測したが、聞仲が安貘吾を倒さない以上出ることは難しいだろう。
チャンスがあるとすれば、役目を終えた熊発冥がここを出る瞬間。
しかし、それは聞仲が倒れ、自分も拘束されたあとのことだ。
受は殺されるかも知れない。
こういう時は、喋るに限る。
「熊発冥、あなたも聞太師を…殷を憎んでいるんですってね?」
「…そうだ」
「むかーしむかし、あるところに、殷に滅ぼされかけた部族がいました。その首領の名を行蓬左と言いました。行蓬左には仙人骨がありましたので、仙人たちからスカウトを受けていましたが、人間界で暮らしたいからと全て断っていました。ただの人間として暮らしていましたが、時の殷の王様が崩御したために、埋葬へ付き添わせるための人身御供が必要でした」
「…やめろ」
熊発冥は声を殺して言ったが、は止めなかった。
受がから目を逸らしたことに気付いたが、彼女は続ける。
「行蓬左の部族は大挙して押し寄せた殷軍に捕らえられましたが、行蓬左と一部の人間は難を逃れました。行蓬左は能力を…力を持つことを拒否した自分を恨み、仙道になる修行を始めます。殷が捕らえるのは人間だけではありません。動物もです。熊、鳥、羊など野生のものはぜーんぶ」
「止めろ!」
「貘が野生でそこらにいるとは思えないけど…、熊のあなたは殷の手を逃れた生き残りかしら?」小首を傾げてが問う。
熊発冥は何も言わず両腕を広げ、発光したリングから氷の輪を生み出す。
は何気ない表情を装いつつ、氷の輪の直径を目算で測った。
「お前はそのお喋り好きな口も塞いでやろうか」
「…おっと? それは困るなー…?」
氷の輪からの脱出方法は考えたが、口を塞がれてはたまらない。の基本は、発声をしながら術を使うからだ。
「まあ、あれですよ。私は頑張れば口から火も吹けるので、少ししか問題ないけれどね?」
それは発声ではなく、手で印を結ぶ必要があるので、自由を奪われたら使えない術だ。強がりを言うだったが、そう言っている間に氷の輪で拘束された。
「これで人質は揃った。あとは殷王とその一族を……!」
熊発冥の憎々しげな物言いに、受は自分たちがどれだけ疎まれているかを感じ取った。
父が崩御すれば、次の王位に近い自分が先陣を切って人狩りをすることになるだろう。その時に、また同じ憎悪を生む。負の連鎖だ。
しかし、先祖の習わしに則り、祭祀を、葬を行わねば受たち一族はもとより、この世界が神々の怒りに触れる。
それを防ぐために必要だと説いても、狩られる側には納得のいかないことだろう。
狩られる立場になれば、思いは同じだ。家族や家臣たちが人狩りに遭うのを、どうして納得出来よう。
愛しいが人身御供になるのなど、我慢ならない。
受ひとりで済むのなら、殷のためになら、いくらでも土に還るのだが。



聞仲は安貘吾の攻撃を避け続けている。
「このっ! このぉっ!」
禁鞭での破壊力だけが聞仲の能力ではない。鍛え上げられた体で俊敏な身のこなしが出来るのは、忙殺されるような政務の中でも鍛錬を怠らないためだ。
「当たれぇ!」
刷毛を振り回し続ける安貘吾を冷めた目で見ながら、聞仲は反撃の隙を窺っていた。



「殷に限らず、古代ではなーぜか人の命を軽んじているようで、実は重きを置いているからこそ、人命を神に捧げるモンよねー。別に、本当の神様は、そんなもの欲していないって、誰も気付かない。知らない。ただ、一番代えがたいものを捧げることが善しとなってしまっている。人は神の声を真には聞けない。殷は卜占(ぼくせん)で真意を汲み取ろうとしてるわけだけど…。私はそれを否定する」
の言葉に、受と、熊発冥と、東伯候は耳を疑った。
「殷の王子様の護衛長のする発言ではないけどねー? でも、人狩りには反対。神が私の目の前に現れて『人命をくれ』と言ったら蹴り倒すわ」
受はの蹴り倒す発言に、目をぱちくりさせた。
が受を見てにっこりと笑う。しかし、ぱっと目線を変え、表情を消した。
「ところでね、熊発冥、私も氷での攻撃は得意とするところなのだけれど」
「…何だと?」
「もう散々喋って蜘蛛の巣は張り終わったから、反撃するね?」
熊発冥が蜘蛛の巣について意味を計りかねていると、足元から氷の蔓が伸びて瞬時に両手両足を拘束された。
広い亜空間を氷の蔓が走り渡り、熊発冥を蜘蛛の巣に引っ掛かった虫のように捕らえる。
「馬鹿め! これで氷の輪は出せないが、お前の氷の輪を狭めることは出来るのだぞ!」
「氷の輪? じゃ、内側に忍ばせた私の氷の輪は消すわね?」
が自分の作った氷の輪を消し、隙間が出来たために、熊発冥が作った氷の輪はただの輪っかとしての体をすり抜け下へと落ちた。
ガァン!
鉄板入りのブーツでは熊発冥の氷の輪を踏み砕く。
「ほ、他の人質の輪をー…」
「そんな時間くれてやるものですか」
氷の蔓が熊発冥の首を絞める。
「それぞれが命がけなら、私も命を懸けるくらい当たり前のいつものこと。でも、奪うのは嫌い…。だから半分だけ死んで」
ぐぎゅっ、と音がし、いよいよ首の骨が折れると思った熊発冥は、半分だけ死ぬの意味を理解し、熊の正体を顕した。体が大きくなった分、細い氷の蔓は折れて四散する。
両手首の宝貝リングがきつくなり、熊発冥はリングを外す。もう宝貝は使える力はなかった。
それでも、彼は目がけて突進する。
!」
受が警告の声を上げるが、は平然と迎え撃った。相手の拳を躱し、懐で掌底を打ち込む。そして顎を蹴り上げてダウンさせた。
「こちらはカタがつきましたよっと」
黄色に塗られた空間を見て、まだ聞仲が攻撃を避け続けているのを見る。
は駆け寄り、亜空間の外にいる聞仲に呼びかけた。
「聞太師! 聞太師! こちらは終わりました! 何とか気付いて下さい!」
繰り返し聞仲の名を叫び、読唇術で戦況が変わったことを知って欲しかった。



聞仲は何度か黄色に塗られたままの空間に目を走らせていた。
何度目かの時、刷毛を避けた拍子に黄色い空間にがいることに気付く。
と目が合い、唇の形を読み、あちらが終わったことを知る。
安貘吾に気付かれないように草の上に置いた禁鞭の近くへと移動しつつ、刷毛を避けた。
「いい加減に攻撃を受けないと、人質の一人を殺すようにするぞ!」
「いや、もうそれは出来ない。お前はこれから死ぬ」
「何!?」
聞仲が禁鞭を手にしたことで、安貘吾は霊獣を操り、距離を取った。亜空間へと目を向けると、そこには誰も映っていない。
「どういうことだ…?」
が熊発冥を人質に取った。降参して、子受様たちをあの亜空間から出せ」
「……人質? 構わん。それくらいあいつも覚悟の上だ!」
刷毛の赤より赤く目を血走らせ、安貘吾は刷毛を振り下ろした。
聞仲は何とか刷毛を…宝貝を壊さず、安貘吾だけを狙うために何度か禁鞭を振るう。
しかし、鼠の霊獣は意外と素早く避けた。
「お前たち殷王朝は滅ぼす」
「殷は滅ばない。私がいる限り、絶対にだ」
「幾ら賢明なお前でも、未来まではみえやしないだろう?」
「当たり前だ。但し、幾つか筋道を立てて予測することは出来る」
「俺たちは、殷が滅ぶ未来を知っている」
「予知の宝貝でも持っているのか?」
「いいや、未来の男から教えて貰った。幾億もの民が殷を恨み、お前が死に、あの暗愚な子受が…首を落とされ死ぬ未来を!!」



聞仲にことを伝え終わったは、黄色に塗られた空間から離れていた。
子受と東伯候たち人間を黒麒麟の周りへと集めるために。
外の風景は見えないが、声だけは届いていた。
呪詛の言葉だけは。
まただ。
受が俯く。
また、謂われのない罵倒を受けるはめになり、受は苦しんだ。民から恨まれる覚えはない。これからこの国を良くしようという案はあるが、それが仇になるとでもいうのか?
民のことを、国のことを思う行動は、万人には受け入れられないと?
「子受様、あんなの気にしないで下さい。きっと、安貘吾たちをうまい話に乗せるためのことです。真実ではありません」
「…ああ」
が受の肩に手を乗せたが、受はの顔を見られなかった。
「…殷が、滅ぶ、とは?」
東伯候やその兵士たちに動揺が走る。
「あの聞太師が死ぬなどと…」
「東伯候、聞仲様が死ぬことなどあり得ません。あのお方は不死ではありませんが、最強の道士。聞仲様の頭脳と禁鞭がある限り、誰にも負けません」
黒麒麟が冷静に諭すが、東伯候たちはまだどよめいていた。
これでは、ここを出てから困るな、とは考えるが、自分が何かを言うより、受にこの場を締めて貰う方が良い。
小声で受に話しかけた。
「受、ショックなのは分かる。でも、今この場で一番しっかりしなきゃいけないのは君だよ。…大丈夫、私がついてる。聞太師も、貴男も、殺させないわ。そんな未来が待っていても、私が壊してみせる」
私がこの世界にいる限りには…という言葉は飲み込んだ。
「貴男がやろうとしていることが間違っているとは思わない。受が殷の王になっても、私はどんなにカタチを変えても、貴男の側にいるから。間違いそうになったら、私が止めてあげる」
「……そうだな、もしそうなったら、平手くらいで勘弁してくれ。蹴りは困る」
苦笑を浮かべながら、受はに囁いた。そして、深呼吸をする。
キッと眼差しの力を強めた。
「東伯候、みんな。敵の言うことに惑わされるな! あの聞太師も、私も、決して殷を滅ぼすような馬鹿な真似はしない! むしろ、これからの殷は今以上に繁栄するだろう! 私が王になるかはまだ分からないが、殷の東を守護する役目を担っていることを、後悔させるようなことはない!!」
「子受様…」
「安心してていいぞ、東伯候」
受の柔和な笑みは、東伯候たちの動揺を鎮めていった。
ほっとしただったが、まだ完全に安堵は出来ない。
「炎の火加減って、難しいのよね…!」
掌に火の玉を作り、受を縛めている氷の輪を溶かしていた。が輪に掌底を放つと、受にもダメージを与えてしまう。蹴りなどもっての外だ。
程良く氷が溶けたころ、は受の了解を得て拳で叩いて割る。これで受は解放された。
、次は東伯候を」
「はい」



亜空間の外では、聞仲が禁鞭を安貘吾に当て、霊獣から落としたところだった。すぐ次の動きで禁鞭は霊獣の命を絶つ。
安貘吾は衝撃により宝貝を取り落した。すかさず聞仲は禁鞭で刷毛を奪う。
「ははっ、そうやってすぐに命を奪うのだな、お前たちは」
「安貘吾、お前こそ、伝健英たちと一緒に殷の民を殺したではないか」
「ふん。一つ忠告しておいてやる。その刷毛を壊すと、子受たちはあの亜空間からは出られないぞ。…最も、それを見越してか、刷毛には攻撃をしてこなかったが」
「無論だ。そんな愚かな真似はしない」
聞仲は霊獣の頭のパレットも壊さなかった。
「パレットの青色…。これが、亜空間の出口の色だな? 無色で刷毛の色を消し、青色で空間を塗るという使い方だ」
「答えないよ」
聞仲は禁鞭をこの空間いっぱいに振るう。ヒュンヒュンと音を立てて鞭が無数の空を薙いだ。
攻撃を食らうまいと、安貘吾は必死で避けたが右足を撃ち落とされる。
「次は左足を狙うぞ」
「くっ」
「降参しろ。捕縛するが、子受様たちの無事が確認出来たら、殺しはしない」
「……分かった」
安貘吾は流れ出る血を気にしながらも、聞仲に刷毛の使い方を伝えた。
聞仲は刷毛の先を無色の絵の具のようなもので塗り、赤色が消えたのを確認し、青色を塗る。黄色の空間を覗き込むと、子受がこちらを見ていた。その黄色の上から青色を塗り重ねた。
すると、その空間だけが亜空間と繋がり、出口となる。
「聞太師!」
「子受様、ご無事ですか?」
「ああ、全員無事だ。まだ氷の輪で何名かが拘束されたままだが…」
受は亜空間から出て、安貘吾と対峙する。
「殷は滅ばない。私は民を傷つけないし、お前たちに傷つけさせはしない」
「フハハ! お前が何を言おうと、未来は変わらない。直接俺たちが滅ぼせないのは残念だが、自滅するのは見物だ。お前の死体が野で朽ち果てるのを見届けてやるよ!」
更に言い募ろうとした受だが、聞仲が刷毛を使い、出口を広げているのが目の端に入った。
東伯候が率いる兵士たちが外へ出てくる。次に、東伯候とが出てきた。
受は草原に遠くで散っている殷の兵士たちが待機しているのを見る。聞仲の攻撃を受けないように、遠くへ移動していたようだ。
「東伯候、殷の兵士のところまで避難してくれ。、東伯候をお連れして」
「分かりました。では参ろう」
「はい」
最後に、気絶した熊発冥とリングの宝貝を背に乗せた黒麒麟が出てくる。
「!」
安貘吾は目を光らせる。自分の両腕は、まだ残っていた。
脇をすり抜けていく東伯候の兵士たちは、何人かが氷の輪をつけたままだ。
聞仲は亜空間の中に誰も残っていないことを確認すると、禁鞭で刷毛を砕いた。
大きな粉砕音がし、それは少し離れたにも聞こえる。
彼女の意識が一瞬背後に移り、同時に熊発冥の気が発生したのを感じた。気絶から復活したのだ。
慌てて振り返り、大声を出す。
「気をつけて下さい! 熊発冥が起きました!」
熊発冥はリングを一対、安貘吾に投げた。
投げた直後、聞仲の禁鞭により絶命する。
リングを受け取った安貘吾は、急いで腕に嵌め、氷の輪を狭めるよう念じながら「オーン!」と叫んだ。
念を感知した氷の輪は、半径1メートル内にいた東伯候の兵士たちの身体を千切らんとばかりに狭まる。
「うわあああああ!!」
「いってえ!!」
悲鳴が聞こえて愉悦の表情を浮かべた安貘吾は、ヒュンっという音を聞いたあと、聞仲の禁鞭を頭に受け、命尽きた。



安貘吾の最後の意思により、東伯候の兵に死者が出た。百名中二名ではあるが、無辜の民の命が絶たれたことに、受とはひどくショックを受ける。
特に、が感じる責任は重い。
妖怪仙人、熊発冥の命を奪わなかったのは彼女だ。
自分の判断が誤っていたことを、は悔いた。
受も安貘吾のすぐ側に居ながら、何の反応も出来なかった。自分たちのごたごたに、何の罪もない人間を巻き込んだことが悔やまれてならない。
それでも受たち一行は、東伯候との会談を粛々と終え、各所を巡視し、帰路についた。
朝歌へ帰る途中、受の父「羨王」の居る大邑商を通る。父に事の顚末を報告するためだ。
そこで、、受、聞仲は興奮の坩堝と化した民たちを見た。
聞仲が様子を探らせたところ、この大邑商が「天邑商」と改められ、羨王は「帝乙」と名乗ったとを知る。
「帝の名を冠する…だと?」
聞仲には、寝耳に水の話である。彼には何の相談もなかった。
「父上…」
不安げに呟く受の声は風に攫われ、隣に居たの耳にだけ木霊した。












**少々話の内容が予定と違いましたが、何とか終えられました。
ものっすごく久々の本編更新です!
ヤッタネ!!!
…鈍亀更新で申し訳ありません。多分、受はお待ち頂いてる方はそうそういらっしゃらないと思いますが、万一「待ってた!」という方には「お待たせ致しました!」です。
…続きはいつになるかまったく目処が立っていませんが、さんと受がイイ感じになるところまでは書きたいので、細々と続けます。

ただし、多分悲恋で終わる…かな? バッドエンドとまではいかないですが、ハッピーな感じではないかな? という気がして幾年月夜。

終わりたくないのでだらだら続けてしまいそう(あと11話ありますが8-5みたいに細分化されると思われます)ですが、何とか完結出来るように頑張ります。

*2015/04/27 Write End
*2015/05/02 Up



夢始  進