8:重責 an important duty 4






 受は青く広がる空を見つめていた。
 手の届かない遠さは、言い知れない不安を受に与える。 を心配して、聡明な目元に影が落ちた。彼女のことだから、聞仲が一緒なら、何も心配することはないはずだけれど。
 そんな受を見ながら、干子は溜め息を吐いた。
 「干子様?」
 黒麒麟が不思議に思って、干子の名を呼んだ。
 「いや、大したことではない」
 干子は岩に座り直し、受と同じく空を見遣る。聞仲が来たことであの敵は絶命するだろう。しかし、まだ他の敵に狙われる可能性は充分にある。
 空中から地平に視線を下げ、岩肌だらけの周囲を間断なく探った。
 ここは、聞仲たちと落ち合う約束の場所。干邑の郊外だ。普段は他邑に行く場合、他の道を通ることになっている。人の行き来を全く考慮していないため、滅多に民が使わない場所だった。
 ここならば、派手な戦闘になっても被害はただが知れている。それでも、干邑が近くにあることには変わりない。地平を薙ぐような技が繰り出されれば、干邑に届く牙になる事もあるだろう。
 敵が現れないことを祈りながら、干邑のある方向を見た。
 私の邑だ。王から任されて以来、ずっと大切に護ってきた自邑は何があっても傷付けたくない。
 家族を、民を思い出す。自分には仙道と戦う力はないが、聞仲に叩き込まれた武術と対処法で護りたいと願った。いや、宝貝の前では、余りに無力か—…。
 黒麒麟が居てくれるのは、心強かった。戦闘タイプではないが、護る力は霊獣随一だ。何も起こらないことを願いつつ、一度目を瞑る。
 「叔父上! 黒麒麟! 何か黒いものがこちらへやって来ます! 聞太師たちではありませんッ」
 受の大声に、干子は肩を大きく振るわせた。
 叶わぬか—…。
 敵襲が現実ものとなった今、すぐに気持ちを切り替えなければ。
 「黒麒麟、見えるか?」
 「はい。宝貝のようです。使用者は居ません。遠隔タイプと思われます」
 「ここで食い止めてくれ。干邑に達することは許さん」
 「畏まりました」
 黒麒麟は外殻を羽根のように広げながら、電光石火の早技で目標物へと迫った。
 受と干子は、仙道が居ないか血眼になって周囲を見渡した。遠隔操作には、宝貝と使用者との距離に制限があると思いたかった。けれど、見当たらない。小高い岩が点在しているこの荒れ地には、隠れる場所に困ることはないだろう。
 宝貝が一つとは限らない。敵もまた、一人とは限らない。またも気の抜けない緊張感が二人を襲う。
 黒麒麟の居ないこの時を狙われたら、一溜まりもない。受と干子は背中合わせに周囲への注意を払った。
 受の瞳が、黒麒麟と黒い物体が衝突した映像を拾った。耳をつんざくような爆音に、顔をしかめる。距離があったお陰でそれくらいで済んだが、あんなものが干邑に衝突したらと思うと、肝が冷えた。
 干子の恐れは受以上だった。鋭く息を呑み、嫌な汗がじわりと湧き出るのを感じる。必死に呼気を制御しつつ、流れた汗を拳で拭った。体中の汗腺が活発になり、酷くのどが渇く。瞬きすら惜しんで索敵に集中した。
 爆発の煙が晴れかけたので、干子は黒麒麟が無事か気になり上空を見た。黒麒麟は干子達の方へ戻るところだった。
 「敵は現れないようですね」
 受の言葉に、干子は同意した。しかし、侮れない。束の間の安堵こそ、狙う方には最大の好機と思える。
 黒麒麟が側に戻ってきたことで安心感は増したが、受も干子も気が抜けない状態には変わりなかった。
 「お二人とも、また私の中へお入り下さい」
 黒麒麟の提案により、二人の王子は再び黒い甲殻の中へと入っていった。
 それから一時間ほど、二人は神経を尖らせたまま過ごした。



  と聞仲は、これ以上の敵襲はないと判断し、受たちを追い掛けた。爆発があってから追いついたのだが、様子見のために近くで見守ることにした。半時ほど経っても何も起こらない。
 聞仲は、追尾型宝貝に気付いていた。黒麒麟なら問題なく撃破出来ると信じていたので、敢えて放っておいたのだ。
 「帰路でも襲撃はあると思います。ただ、干邑に滞在している時に襲われては、すべてを護り切れるかどうか…」
 「まず、無理だな」
 聞仲は言い切った。ひたり、と を見据える。
 「相手には、こちらの滞在期間が判らないだろう。朝歌へ戻る時間はおおよそ予測出来るが、限られている。もとより、私が居ないことが前提の攻撃だ。短い間に仕掛けてくる」
 「どこからか見られている気がします」
 「…千里眼の類か、或いは…」
 聞仲が王子たちの元に居る、そのことが行蓬左の計画を狂わせるのは確かだ。しかし、 の言う通りにこちらの様子を把握しているのだとしたら、聞仲が伝健英を殺したことで報復にやってくるのも間違いない。
 「せめて、行蓬左達の居場所が判れば、乗り込めるのに…」
 残念そうに呟く に、聞仲は背を向けた。
 「 、自分の仕事を忘れるな」
 殷王朝に、受に仇なす輩を排除するのは間違っていないが、 はあくまでも護衛が仕事。本来、受の元を離れては成り立たない。
 「はい」
 それは とて判っている。けれど、彼女は今まで、護りに徹した戦い方をしてこなかった。誰かを背にして戦ったことはあるが、 はいつも、自分から敵に切り込んでいくタイプだ。
 攻撃こそ最大の防御という考え。防御の仕方によっては、攻撃へとなりうる戦い方もあると、知ってはいるけれど。
 次に来るのは、弟子か、義兄弟か、それとも行蓬左本人か…。
 青い奴に行蓬左の居場所を聞くべきだったと後悔。今から倒した場所へ戻っても、もう逃げ帰っていることだろう。 は生き物の気を感じ取ることが出来るが、ここからでは範囲外である。
 攻撃出来ないという事は、 に意外なストレスを与えた。自分の仕事を忘れるな、つい今し方言われた言葉を反芻する。
 私の仕事…。
 子受の居る方向へ向き直った。彼の側に居たいと、心が逸る。
 狩りに行かずとも、襲ってくる敵を倒す事に集中しよう。
 「行くぞ」
 聞仲の呼び掛けに応じ、 は走り出した。
 先程から全開で全方位を索敵している。彼女の網に引っ掛かる怪しいものはないが、どんな些細な変化も見逃さないように神経を尖らせていた。
 そんな中に、聞仲と受の気がある。彼らの気性は にとって心地良い。
 聞仲の水のような静謐さに秘められた猛々しい気性。その気に当てられて鼓舞されている気分だ。
 受は太陽のような温かさを放っていた。安心して寄り添いたくなる。絶対に護りたい、大切な人。
 切り替えろ。今の私が取るべき戦い方。それは、護る、だ!
 受たちに近づいた頃、黒麒麟が反応した。 は手を振った。
 「聞仲様、 !」
 黒麒麟は叫んでから、受と干子を体内から出した。
 聞仲は二人の王子に挨拶をし、これからの行動について簡単に説明する。受たちは頷いて聞仲の言葉に従った。
 まずは、干子を無事に干邑まで送り届けねばならない。
 散り散りになっていた兵士たちは、 が取り纏めることになった。彼女は来た道を引き返し、夜までには干邑に着くよう指揮する。
 黒麒麟のお陰で、受たちは早々に干邑へと到着した。干子の館に入り、一息吐く。
 干子の臣下が進み出て、書簡を手渡した。干子はそれを受に渡して、早く返事をするようにと言い含める。
 受には中身を見ずとも何のことか察した。
 …姜の姫からだ。
 受は年若かったが、はっきりいって女性が好きだし、興味もある。
 王子という立場上、外交としての付き合いは必要であるし、政略結婚も厭わないと思っていた。
 しかし、それらは と出会う前の話だ。
 文通相手は他にもいたが、最近懇意にしているのは四大諸侯と呼ばれる内の一人、姜桓楚の娘である。
 ふと、干子の視線が気になった。顔を上げると、干子と視線がぶつかる。叔父はすぐに目を逸らした。
 中身を読む。挨拶から始まり、受を気遣う言葉の数々、最近の東部の様子、家族のこと、最後には受に会いたいと書かれていた。
 会うのは構わないが、最早、付き合いたいとか、将来の后にとは考えられない。
 受は殷の王子であるから、后は複数いても問題ないけれど、 はどう思うだろうか。
  の国では、一夫一妻制と聞いていた。
 もしも受が王になることがあるなら尚更、この殷の将来のために、嫁も子供も沢山必要なので一夫多妻でも我慢してね、とはとても言えない。
 特に、 には。他の女には言えるだろうに。
  一人と結ばれても、子沢山なら問題ない?
 否、近隣諸国、或いは今後友好を結ぶ邑、支配する邑、などから政略結婚を持ちかけられることは充分あり得る。言われずとも、こちらから提案することもあるだろう。
 一人の女性とだけ結ばれるのは、受の立場上とてもとても難しい。恐らく、王子のままであろうとも。
 「何と書いてあった?」
 干子が詮索してきた。茶を啜る彼を見ながら、受は答える。
 「彼女の近況報告です」
 「会っていかないか? ここから東伯候の邑は近い故、久々に、ついでに会ってみるのも悪くあるまい」
 「そうですね。ですが、今は行蓬左たちから狙われている身。標的になっていると判っているのに、東伯候の姫を危険に晒す訳には参りません。東伯候と落ち合う場所も、変えた方が良いでしょう。幾ら聞太師が一緒でも、今回はお会いしない方が良いと思います。ですよね、聞太師?」
 受は聞仲に笑いかけた。聞仲は肯定の意味で頷く。
 干子が残念そうに溜め息を漏らせば、受は困った顔を作って笑った。
 夕食時にも、干子は受に提案した。事が終わったら、姫に挨拶をしに行ってはどうかと。受はそれも笑顔で断った。
 客間を与えられて、受は寝具に横たわり天井を見上げる。 はまだだろうか、と彼女の事が心配になった。とうに日は沈み、そろそろ干邑に辿り着くはずの時刻だ。
 思ったように兵を集められていないのだろうか…。
 鳳が舞うレリーフが受の目に入る。金一色のそれは、白い机の上に飾られていた。扇状の形をしており、小ぶりながら目を惹く。
 おおとり。鳳凰。王者の象徴の一つ。
  の仲間。
 従える彼女は、殷に何かをもたらしてくれるような気がする。
 取り分け、自分に与えた影響は大きい。
 受は起き上がって部屋の外に出た。外気は生暖かく彼の頬を撫でて行く。雲が多く、星の少ない空が広がっていた。異常は感じられない。
 聞仲が夜襲に備えて、黒麒麟と手分けして干邑の警護に当たっているから、多少は安心感がある。
 東へとやって来た本来の目的を達するのは時間が掛かるかも知れない。東伯候には会う予定があったが、行蓬左たちの襲撃の所為で取り止めの線が濃厚だ。
 それでも、王が征服する予定の敵地は下見をしておく必要がある。
 明日の朝には、干邑を出て行く予定。この地に攻撃を許してはならない。
 人間界との争いを避けるため、幾ら妖怪仙人といえども、こんなに大勢の人間が居るところを攻撃することはないと思いたかった。しかし、相手は行蓬左、そして、 を良く思わない敵。
 何より、受を殺したいほどの奴がまた現れないとも限らない…。
 王子なのだから、命を狙われることくらいは覚悟して生きている。悪意の歯牙にかからぬように、護身術は徹底的に仕込まれていた。
 湿度が高い気がして、受は不快に思った。部屋へ戻り、無理矢理にでも寝ようと決めた。
 きつく目を閉じる。眠気はなかったが、昼間のことで疲れていたのだろう、受はものの数分で眠りに落ち、よく眠れた。
 目が覚めたのは、自然と目蓋が開いたからだった。すぐに頭はクリアになる。室内を照らす仄明かりで、朝だと判った。受は急いで部屋を出た。
 干子の家の者は、まだ誰も起きていないようだ。空を見上げても、黒麒麟は居ない。聞仲はどこだろう。 とは、ちゃんと合流出来たのか?
 広い庭を見ると、簡易テントが幾つか張られていた。ホッとした心地で、朝歌から付いてきた兵士たちが休んでいるのだろうと思う。
 では、 は…。彼女はどこだ。
 早朝という時間を考え、受は大声で を呼びはしなかった。彼女の方から気付いてくれないだろうか。
 寝巻着のまま、受は庭を進む。自分たちのテントではないため、護衛長など位が上の者が使っているテントがどれか判らない。全部同じ作りや大きさだった。
 朝日の光が強まり、受は手を額にかざす。綺麗な朝焼けも、今は眺めている気になれない。地面に伸びる影を見る。数秒見つめて、受は走り出した。
 「 !」
 呼び掛ける。決して大声にならないように制御しながら。
 「 、どこだ? 居ないのか?」
 テントと灰色の壁の間を縫い、呼んで回る。屋敷に注意を向けるが、長い廊下は誰も居ない。
 家の正面まで回ってきてしまった。門番に聞く事にする。見張りが一人だけ立っていた。
 「おはよう」
 受が呼び掛けると、兵士はびくりと身体を震わせ、受に向き直った。目の前の少年が誰か正しく認識した兵士は、両膝を付いて礼をする。
 「おはようございますっ!」
 「付かぬことを聞くが、朝歌から来た兵士たちに混じって、黒髪の女が居なかったか?」
 「はっ、仰る特徴の女が一人居りましたが、聞太師と一緒に出て行きました」
 「そうか…。ありがとう」
 干子の屋敷の周辺で警護中のようだ。受は、門の外へ出た。ここから先は、ふらふらしない方が良さそうだ。 に会うより前に、聞仲に見つかったらうるさいだろうから。
 左右を見渡しても、 は居なかった。仕方なく、受はまた与えられた部屋へと戻ることにする。
  も兵士も無事で良かった。いや、兵士たちは全員が無事かは判らないが。
 受は自分の足取りが軽くないことを認識していた。心配事が多すぎる。
 状況把握をしておくに越したことはない。各テントの中へ入り、人数を把握する。狭い中に、雑魚寝をしている彼らは、完全に寝入っていた。体力も気力も殺がれる戦いだったから、仕方のないことだ。全員居ることを確認し、ホッとした。
 しかし、再び寝具へ横たわっても、眠くないし腹も空いていない。暇を持て余してしまう。今日の予定を頭で思い描く。朝食を食べた後、干邑を出て一旦は南南東へ。
 巡視はそのまま北西へと伸び、泰山に至る。帰りは再度南下して幾つかの邑を回り、殷へ…大邑商まで戻る予定だ。王に報告したら、ようやく朝歌へと戻れる。
 この長旅が終わったら、三日くらいは休みが欲しい。 と二人で、ゆっくりと過ごしたいと思った。遠出しても良いし、禁城でぐーたらと時間を貪るのも良い。
 そう考えると、徐々にやる気が湧いてきた。
 受はあれこれと考えながら、干子の家の者が起こしに来るのを待った。
 ごろごろして時間を潰していたが、聞き慣れた足音で飛び起きる。 だ!
 部屋の前で止まる、パタパタと軽快な足音。次いで、ノック。
 「受、 です。起きてるでしょ?」
 「うん、起きてるよ。開いてるから入って」
 そう言いつつ、受は扉へ駆け寄った。
  が扉を開けて「おはよ」と軽く言っている間に、受は笑顔で抱き付いた。
 「ぅおおーい!」
  の不満げな突っ込みは無視し、両腕に力を込める。
 「おはよう。 たちが無事で良かった」
 「…君もね?」
 軽く笑いあった後、 は受を引き剥がし現状報告を始める。
 「兵士の負傷者は二十三名。殆ど軽傷。死者はゼロ。歩兵は先に朝歌へ帰すことになった。馬の多くが居なくなってしまったから、干子様に必要分は補充をお願いしたよ。挨拶は済んだから、予定通り干邑を出て東伯候に会う。但し、会見の時間は短くなったわ。歓待の類は一切受けないことにした。必要なことを、最低限して、とっとと移動。干子様に早馬を出して貰って、東伯候と会うのは、邑の手前と場所を変えたからね。民に被害を出さないのが最優先」
 受は頷いた。
 「…早めに決着付けないと、大邑商や朝歌も危うい。このまま私たちが戻るのは、正直躊躇うわね」
 「うん。僕たちを孤立させたいのかもね」
 「被害を出させないのは、敵地も一緒。争いごとに巻き込まれたと、言われて糾弾されたら面倒だもの」
 今度敵が出てきたら、 は容赦を許されない。妖怪道士が正体を顕して、動物や器物に戻るならば、悪さしようがないので良いと思っていた。しかし、非情にならねば後の憂いに繋がることもあるだろう。
 自分が斃さなかった敵が、受や聞仲を傷付けるかと思うと、やりきれない。
 行蓬左の仲間には、人間も居る。
 殺せるだろうか、自分に…。
  は胸の内は一切表に出さず、受に笑いかけた。
 「でも、あたしと聞太師や、みんなとで頑張るからね。み〜んな一緒に、朝歌へ帰ろうね!」
 「うん、頼りにしてるよ」
 それから、受は着替えて干子や聞仲に会った。しっかり朝食を摂り、別れの挨拶をする。ここでも、干子は東伯候の娘を話題にした。 の前だからこそ、言う価値があるとでも思っているように感じた。
 軽くかわして、受は微笑んでみせた。
 「手紙の返事は、東伯候に口で伝えて貰います」
 「それでは礼に適わないのではないか」
 「緊急時です。…ですが、また朝歌に戻った時に、改めて返事をしたためます」
 干子の気分を害さないようにと、受は気を遣った。早くこの場から去りたい。
 「子受様、そろそろ参りましょう」
 聞仲が催促する。受は助け船に乗り、退出した。
 庭に出て、テントを畳んで出発の号令を待つ兵士たちを見渡す。
 「東伯候の元へ急ぐぞ。いつ行蓬左の襲撃があるか判らない。心して付いてくるように」
 『はいっ!』
 受の言葉に応えた兵士たちは、受、 の後に続いて干邑を出た。
 緑の海原を北東に越え、山間で一休みする。 は自分の馬に飲み水をやった。朝歌から連れてきた馬は、襲撃の騒動で半分ほど居なくなってしまったため、 の馬も変わっていた。専用の足の速い馬を与えられていたのだが。
 兵士の数は、歩兵を帰したので、五十名に減っていた。例え蛮族に襲われても、聞仲と が居れば、問題ないという判断からだ。
 そう指示した聞仲は、黒麒麟と共にしんがりを務めている。彼もまた、馬で移動していた。
 夕暮れ前には東伯候との約束の地へ行けるよう計算されていたが、少し早く着きそうである。休憩を終えた後も、彼らは速度を落とすことなく、早急に馬を走らせた。
 白亜の雲が、流れていく。速い。 は上空の気流の速度をざっと計算した。休憩の時も、雲の流れは速かった。地上は微風程度だ。馬を走らせていれば、風を切るように進むが、否、そんなことはどうでも良い。
 嫌な予感がする。
 雲を見て、風を感じて何が判る訳でもないというのに、襲ってきた戦慄の予感。
 温い風に混じって、 の五感を刺激している。
 敵は近そうだ。
 まだビリビリと痺れるような、脳天を貫かれるような感覚ではないため、恐らく、すぐに襲撃はしてこないだろうと思う。
 けれど、 は自分のこの「嫌な予感」の恩恵は、基本的に自分にしかないことを知っている。知らせるなら、早い方が良い。
 「子受様、嫌な予感がしてきました。索敵しても、発見出来ません」
 籠は使わず、受も馬で走っていた。 の言葉を聞き、頷く。
  は馬を列から外し、速度を落として聞仲の横に付けた。彼にも報告し、警戒を強める。
 「ぎりぎりまでは、東伯候と会うようにしたい。もし、直前になっても敵対出来ないようなら、会うのは取り止めた方が良いだろうな」
 「そうですね」
 平原をひた走る一行は、丘陵地帯目前に来ていた。
  は、商人に『東夷』と侮蔑される民族の襲撃も考えたが、包囲される気配はない。この見晴らしの良い状態では、包囲網を築かれることはないだろう。
 しかし、仙道の攻撃は別だ。相手も正面切っては来ないと思うが、こんな開けた視界でも、使う術…否、宝貝によっては問題にならないはず。
 ここなら、 も聞仲も戦い易い。二人とも、攻撃手段が広範囲だからだ。
 「黒麒麟、この先を見てきてくれ」
 聞仲の命に、返事をした黒麒麟は急上昇してロケットのように飛んで行った。上がって直進するまで十秒も経っていないのが、 の目にはもう黒い点にしか映らない。チーターより速いのか、とぼんやり思う。実際はそれ以上だとも思った。
 五分ほどで黒麒麟は戻ってきた。
 「東伯候たちを三キロほど先で発見しました。この先、異常はありません。泰山付近まで見回りましたが、こちらも問題はないかと」
 「そうか」
 「聞太師、どうなさいますか?」
  が聞けば、聞仲はすぐ返した。
 「そろそろ限界だな。子受様に、東伯候と会うのはキャンセルするよう伝えてくれ」
 「はい」
  は馬を飛ばし、受に追い付く。
 「子受様、聞太師が東伯候にお会いになるのはキャンセルするようにと仰っています」
 「…判った」
 東伯候に協力を願えないものか。受はちらり、と考えた。彼らが犠牲になっても良いと言いたいのではない。周囲の環境からしたら、大邑商や朝歌で戦うよりは、この場で勝負をした方が良いのでは…。
 いや、次が最後とは限らない。聞仲の判断に任せよう。
 「皆の者、止まれ!」
 受の号令で、一団は停止した。
 「東伯候に会うのは、取り止めとする。これから、泰山の麓を臨み、南方の巡視を行う。我々だけでの行軍となるが、聞太師や護衛長も一緒だ。必ずやり遂げるぞ」
 受の言葉に呼応した兵たちは、受に続いて方向を変える。聞仲に指名され、黒麒麟は飛び上がった。東伯候の元へ向かう。
  は黒麒麟を見上げながら、古代中国の版図を思い浮かべる。これから行くのは、帝乙が臨む南方の掌握のために犠牲になる場所だ。人を労働力として、また有事には戦力として、そして生け贄として収穫するための下見。
 呪術を用いて、後の本格的な襲撃に備えておく。清めのお払いのようなものだ。
 理解不能。
 と、そんな言葉だけで片付けられたらどれだけ楽だろう。
 今来ないかな。
 黒麒麟が居ない今なら、受のための守備力が大幅に下がっている。
 いや、ここで南へ行くことまで中止になるような惨状になっても、きっとまた兵士たちは派遣されるだろう。
 人狩りに嫌悪を覚えながら、それを助長しようとしている。
 嫌だからといって、殷を滅ぼす訳にもいかない。
 受の側を離れるのは、もっての他だ。
 自分が殷王朝を掌握して、こんな下らないことは止めさせたらいい?
 そんな、馬鹿な!
 元々、 がしたいのは、望んだことはそうじゃない。
 しかし、見過ごし、加担するのも良心の呵責が許さない。
 まだ、迷っている。こういう事態には、なるべく心を殺そうと思っていたのに、嫌だと叫びたい自分をはっきりと自覚。
 他の世界でも思ったことだが、国のため、王のため、人民のため、神のため—…、そんな理由で他の命を害しようとする行為が正当化されるのは何故だろう?
 物を奪って子供を躾ようとする親のように、大して解決になっていないことが判らないのだろうか。しかも、一度奪った命はもう二度と戻らないというのに。
 人が人として、人の中で生きていく以上、犯してはならないはず。
 ああ、そうだ。そうだった。
 少なくとも、この世界では、帝は神に等しく、王族は崇高なる存在。そのお膝元の商の民も、神聖な生きもので、商の民以外はただの人。ましてや敵対する民族は人に非ず—…。
 貴賤の差を設けるのは、何も古代に限ったことではない。 が居た平成の世ですら、皆平等とは言い難く、国によっては王政が残っている。
 テレビやネットで見るニュースではない。対岸の火事のように思えていた血生臭い争いが、始まる。
 自分は、その渦中に飛び込もうとしていた。
 もしも、 が何の力も持たないただの女であったなら、苦しみは少なかったかも知れない。
 自信過剰であるかも知れないが、上手く使えば大きな争いごとを止められるだけの、それこそ、一国を掌握するだけの力があった。
 幾つかの力が使えなくなっていたので、かつての破壊力こそないものの、いや、暴力で解決する気はないが、知恵を働かせれば小技の積み重ねでそれぐらいのこと…。
 頭脳戦で聞仲とどこまで渡り合えるだろうか。
 いや、いや、そうじゃない。
 受の護衛になると決めた時から、毎日少しずつ、こういった事態に備えようと心積もりをしていたのに、全くなっていない!
 「 ?」
  の様子がおかしいのを感じ取った受が、近付いて来た。馬上から、覗き込むように を見ている。
 ふいに、受の筆頭護衛に任ぜられた前日の会話を思い出した。
 『無理に殷に染まったら、もっと は苦しむと思う。見過ごせずに、反対したくなる出来事が、きっと沢山ある…。今ですら、容易に想像がつくことが幾つかあるから。それでも、 の型に嵌まらない思想・思考は、きっとこの邑には必要だ』
 まだ殷に必要なもの、は判らないけれど、受が言っていた事は的中している。
 苦しい。どうにも出来ない気がして、苦しい。
 「何でもない」
 えへ、と笑った は手綱を引き寄せて、馬を動かした。受から離れて、聞仲に訊く。
 「行蓬左の仲間は、新しい宝貝を持っていましたよね。宝貝とは、簡単に作れるものなのですか?」
 「アイディアと技術力があれば。行蓬左自身は大したことはなかったが、弟分に一人、科学者が居る。全員分の宝貝が一新されている可能性は高いな。昔の情報はもう、あてにしない方が良いだろう」
 「はい。この後、私は、子受様の真後ろに付いて進みます。聞太師は、引き続き最後尾にいらっしゃいますか?」
 「そうするつもりだ。黒麒麟には、後で子受様の真上に居て貰おう」
 「はい」
  は聞仲と話しつつも、受の視線が気になっていた。誤魔化しきれなかったのか、受は を見つめ続けている。その視線に気付きながらも、 は彼を見なかった。
 「黒麒麟さんが東伯候の元から戻ってきたら—…」
  の視線は、素早く聞仲から他へ向く。受へではない。
 聞仲の真後ろ。真っ青な空と山の境目。雲ではない。
 「大きな煙です!」
  の大声に反応し、受や聞仲を始め兵士たちも彼女の指差す方角を見た。
 「大爆発でもあったかのような…、いえ、あれだけのものなら、少しでも爆発音が聞こえてもよさそうですけれど…」
 きのこ雲、に似た真っ白な煙。純白に見える煙が出るパターンを考える。もしかしたら、煙と判断するのは早計かも知れない。しかし、ただごとではないことは判る。何せあの方角は。
 「東伯候が居る辺りか」
 聞仲が呟いた。黒麒麟が側に居れば、東伯候の命に別状はないだろうと思う。黒麒麟のスピードなら、もうあの白い煙の位置まで行っているはず。けれど、もし本当に大爆発が起こっていたら、東伯候の兵は全員無事では済まないだろう。
 あの規模の爆発は、人外の力でないと起こせない。
 「聞仲、あれはきっと行蓬左たちの仕業だ。東伯候たちの無事を確かめに行こう!」
 受が立ち上る煙を睨みながら、言った。
 「いいえ、子受様と は、ここに居て下さい。私と兵士十名が行きます」
 「駄目だ。こんな時は、全員一緒が良い。皆で行くぞ」
 譲らない受に、聞仲は厳しい声で言った。
 「子受様、いけません。子受様を誘き寄せる気なのです。東伯候が人質に取られている可能性もあります。そんな中、子受様が行かれては」
 「聞仲! 私が目的なら、尚のこと放っておけない!」
 受は聞仲の台詞を遮り、怒鳴った。
 「直接狙ってこないところをみると、確かに罠だろう。だけど、本来は殷王家の問題だ。関係ない東伯候たちに迷惑を掛けているのはこちらだ。太師だけで行くよりも、王子である私が行かなくては!」
 言いながら、受は馬を操る。
  は聞仲を見た。一瞬眼を伏せたが、すぐに迷いのない顔で指示を出し始めた。
 「判りました。分断したところを狙われても困りますね。私が先頭で馬を走らせます。よし、全兵、あの煙の方角へ全速前進!」
 急遽、方角を変えて馬を走らせることになった兵士たちの表情には、疲れの色が浮かんでいる者がちらほら見えた。朝から移動し続けているから、仕方のないことだ。
 受は進み始めた一行を叱咤した。
 「いいか、一刻も早く進むぞ! 東の民に血を流させては駄目だ!」
 受に応え、兵士たちは勢いよく声を張り上げた。
 聞仲の後に受と が続く。兵士たちも遅れまいと、馬を飛ばした。
 陽が西に傾き始めた空の下、一行は東へ東へと進む。









**お、おかしい。
 もっと早くに出来上がっているはずだったのに、何この遅延っぷり!
 8−5も書き始めてますが、思うところまで入り切らなかったせいで、また苦労の予感…!!
 ラヴラヴはいつくるのかなー、と思いつつ、一生こない気がしてきた。

 …駄目じゃん。

*2010/10/30up

夢始