第伍話:明日も生きているのは、誰?





 甲染僧正の目には、炎に呑まれる が映る。
 しかし、彼女は炎の中で冷淡に微笑した。
 炎は弾け飛び、甲染僧正へも火の粉を運んだ。袈裟の袖で顔を庇った時には、またもや後ろ首に激痛を覚える。
 「瞬間移ど…ッ」
 「違ーう」
 甲染僧正が膝を付き倒れたのを見て、 は言った。
 「とっても疾く動いただけ」
 気絶した甲染僧正は、部屋にあった花瓶下の布を細く裂いて両手を縛っておく。足も拘束したかったが、時間も道具もなかった。
 「 、終わったぞ」
 結界符を作り終えた三蔵が部屋から顔を出した。
 「おっけー。じゃ、結界がっつり張っちゃって。そんで、後は任せて。行ってきます!」
 にこやかに宣言した は、敬礼のポーズを取った。三蔵が結界を作り終わるまで側に居るつもりだったが、勢いで言っていた。
 三蔵は部屋の外に護符を貼り、念を込めていく。終わると今度は部屋の内側から再度念を込めて結界を作成した。
 扉越しに、 が言う。
 「待っていてね。必ず迎えに来るから」
 「ああ、気を付けろよ」
 「うん」
 思わず口元が緩んだ だったが、走り出した時には別人のように冷めた表情をしていた。バトルモードへスイッチは切り替わっている。どう仕掛けていくか、と考えれば考えるほど脳の回転も走るスピードも上がっていった。
 炎が消えた部屋へ、迷わず行く。甲子鏡の気はないが、 は逃げてきた道を覚えていた。
 しかし、部屋の中には、甲子鏡は居ない。部屋を間違えたのかと一瞬思ったが、それはありえない。
 可能性は、幻術に掛かったのか、甲子鏡が移動出来たか—…。
  は、壇の上に残っていた箱の中を見ようと思った。そこには、 を映す鏡が入っていた。
 「…甲子鏡? 力がなくなって、ただの鏡になってる?」
 これは、ただの鏡。外枠。器。
  は慌てて鏡の後ろを見た。甲子鏡の裏に彫られている文を読む。本物のはずだ。
 「偽物でなければ、鏡の中に本体とでも呼ぶべきモノが居たのね…。迂闊だった」
 もっと、ありえなさそうなことでも色々な可能性を考えておくべきだった。思いつけなかった自分に苛立ちを感じる。
 箱ごと鏡を抱え、 は三蔵の許へと走った。
 もしも。
 もしも、甲子鏡が三蔵の許へ直接行ったのだとしても、あの結界の中へは入ることは出来ないだろう。
 いや、甲染僧正が居る。目を覚まして、結界破りを始めないだろうか。
 それよりも、甲子鏡—…、その中身とも呼べるモノが、鏡から鏡へ移動出来るのなら、結界など役に立たないのではないか?
 あの部屋にあった物を思い出す。鏡は置かれていなかった。
 今頃になって、本日最大級の嫌な予感が の脳を蝕み始める。
 まずい。非常にまずい。
 渡り廊下から三蔵の居る部屋が見えた。雨も見える。霧のように細かい雨だった。
 甲染僧正は、まだ気絶をしたままだ。
  は部屋の前まであと数歩、というところで、三蔵の大声を聞いた。何と言っているかは判らない。
 「玄奘君ッ!」
 結界破りが出来ない は、扉の前で名を呼ぶばかり。



 結界が完成してから、三蔵は人心地ついた思いで床へと座り込んだ。
 自分の余りの弱さに嫌気が差す。この不利な状況は、己の弱さが原因だ。 が居なかったら、すぐに殺されていたのではないか。
 どうやったら、強くなれる?
 もっと射撃の訓練をして、精神攻撃を受けないように頑丈に心を制御して、法術に磨きをかけて?
 それで、どこまでいけるだろうか。
 騙し騙しやってきた今までの時間。恐らく、これから同じ手は通用しないことが多くなるだろう。
 実は、 と会う数日前から、妖怪の攻撃回数が多くなってきていた。そして、ここへ来て甲子鏡からも喧嘩を売られている。
 三蔵の探し物が見つかるまで、生きていられるだろうか。探し物の情報自体、霞を掴むかのようなもので発見は容易でない。その間に、強敵に襲われ続けたら、勝てない気がした。
 普段は懐にある魔天経文を思い出す。思わず手を胸元へ持っていった。
 これさえあれば。
 そんな気持ちもあった。何せ、広範囲の攻撃が出来、殺傷能力はとてつもなく高い。例え数十人の妖怪や人間に囲まれようと、勝てると思っていた。
 しかし、そんな三蔵の自信は跡形もなく砕けた。
  が必要だ。
 彼女に教えを乞うのは少し癪だったが、今や学べることは何でも身につけようと思えた。
 このままただ待っているのも落ち着かない。三蔵は、甲染僧正と甲子鏡に勝つための手順を考える。 に任せておけば大丈夫だと思うが、万が一を考えて備えをしておけば、彼女の足を引っ張ることもないだろう。
 少し考えた後、三蔵は余った札に真言を書き綴った。出来上がった札を見つめて、額に貼ろうか迷う。
 逡巡していると、甲染僧正の机の引き出しから音がした。一番大きな引き出しからだ。静かな部屋の中で、異様なまでの大きさに聞こえた。
 がつん、がつんとぶつかるような音。
 引き出しは、開けない方が良い。直感でそう思った。
 どう対処したものかと考えあぐねていると、がたんっ、と一際大きな音が響いた。
 三蔵は、机から離れた。今の音で引き出しが開いたと思ったからだ。観念して顔半分を札で隠す。符術での攻撃は得意ではないが、もっと早く攻撃用の札を作っておくべきだったと後悔した。
 「三蔵法師よ」
 甲子鏡が三蔵に呼び掛けた。
 「玄奘三蔵法師よ、聞こえているだろう」
 三蔵は黙って聞いていた。自分から口を利くつもりはなかった。
 「私を見なさい、三蔵法師。私の中に、お前の欲しいものが見える。取り戻したいのだろう」
 三蔵は思わず息を呑んだ。知っている? こいつは、探し物の在り処を知っている…。
 「教えてやろうじゃないか。聖天経文の在り処を!」
 乗せられるな、と三蔵は自分を叱咤する。甲子鏡の言に耳を貸すなど愚か。
 「知りたいだろう。早く取り戻さないと、永久にその手にすることは出来ないぞ。大切な師匠の遺品だろう? さあ、見においで」
 三蔵は応えない。
 「ただとは言わない。交換条件に、お前には私を壊して貰いたい」
 「……何だと?」
 「私の器を、壊してくれ。もうすぐあの女が私の器を持ってやって来る。それを壊すだけで良い」
 甲子鏡の意図が判らない。それに、器というのは、恐らく先程まで見ていたあの鏡のことだろう。今はどんな姿で引き出しの中に居るというのだ。
 三蔵は甲子鏡に関する話を思い返す。師から聞き及んでいた、十干の名を戴いた宝物の話だった。
 しかし、この状況を打破出来るようなヒントはない。
 「壊すとどうなるというんだ。そんなことをして、お前に得があるとは思えない」
 「あるさ。鏡の外に出られる。この世に再び、舞い戻る!」
 興奮気味に喋った甲子鏡の声が、耳障りなノイズにしか聞こえない。三蔵は酷く気分が悪くなる思いだった。
 「私を見たくないなら、それでいい。この世に戻ってから経文の在り処を教えてやろう。それでお相子だ。その後、魔天経文を頂くとしよう。嫌なら、私に勝つことだ」
 「魔天経文を手にして、何をするつもりだ? お前には扱えない代物だぞ」
 「知っている。三蔵法師しか使えないんだろう。だが、私の知り合いに三蔵法師がいるからな。そいつに使わせる。私が更なる自由を得るための、取引道具としてな」
 知り合いに三蔵法師、という部分が疑わしい。この世で生きているはずの三蔵法師は、自分を含めてあと四人。
 三蔵は、残りの三蔵たちがどんな人物か知らなかった。甲子鏡に協力するような性根の三蔵法師が居ると?
 更なる自由とは何だろう。判らないことだらけだ。
 たった一つ判るのは。
 「お前の手を借りるつもりはねえ。俺は、俺の力で必ず聖天経文を取り返してやる」
 「はははははははっ。無理だ、無理。このままではお前の手に経文は帰らない。そういう未来だ。何故経文が狙われているのかも理解していないお前には、取り戻すことなど不可能。妖怪たちにこぞって狙われるお前は、長生き出来ん」
 「ごちゃごちゃウルセーんだよ! テメェの言うことは信用出来ねえ。とっとと倒して、先へ進んでやる!」
 「倒す? どうやって? ここにはお前独りだぞ。あの女抜きで、経文もないままで私に勝てる訳がない!」
 その言葉を遮るように、三蔵が唱えた真言で、部屋の中に皓々とした光が広がった。
 「経文がないわけねーだろ」
 「はったりを言うな」
 甲子鏡の居る引き出しの中でも、白い光は判別出来る。白? 聖なる光…?
 「はったりかどうか…」
 「はったり以外の何だと言うのだ! 魔天経文の発動は、こんな色ではなかった!」
 「……魔天経文の力を知っているのか?」
 三蔵は驚き呟いてから、ある可能性に思い至る。
 「フン! そうか…。この俺が後でテメエに対して使うんだろう? それを、予知夢でみてたんじゃねえのか?」
 「…!」
 余分なことを言ってしまった。が、それを除いても、「先」を知っている甲子鏡は、負ける訳にはいかない。
 必ず勝って、生き残ってみせる。
 「どのみち、お前独りでは、私に勝てない」
 「やってみなきゃ判んねーよ」
 三蔵の言葉に呼応するかの様に、発光が強くなった。
 「いつまでそんな狭いところに居る気だ? 出て来いよ。来ないんならこっちから行くぞ!」
 甲子鏡は沈黙を守った。三蔵も無言のまま歩く。
 後ろへと。
 「オン、アラキリヤ、アミリタギャギャノウキチキャレイ!」
 早口で唱えた真言で、結界を解いた。
 体当たりするかのように勢い良く開いた扉の向こうには、 が居た。
 「玄奘君、無事!?」
 「…ああ」
 「ったまきた! 甲子鏡、ここでお前の生、終わらせてやるッ!」
 飛び込んだ部屋の中で、異様に昏い気の塊が隠れた存在を に教えている。彼女は気弾を放ち、机を吹っ飛ばした。
 「玄奘君、もう一回結界張れる? 私と甲子鏡を閉じ込めて!」
  の言葉に、三蔵は逡巡した。札は残っている。守護結界を張るのは容易だ。けれど、本当にそれで良いのか迷った。
 「早くッ!」
 「判った」
  の言う通りに、三蔵は結界を作ろうと扉に手を掛ける。
 「そうはさせん!」
 高周波のノイズが三蔵の耳に不快感を与えた。思わず両手で耳を押さえてしまう。
 「うっるさ! 悪足掻きはやめろっつーの!」
 「悪足掻きでも何でも、お前たちには負けんぞ!」
 「…あっそ」
  は鏡の入った箱を高々と上げた。壊す気か、と思った三蔵が声を荒げる。
 「 、それは壊すな!!」
  は一度だけ三蔵を見て、すぐに机の残骸を睨んだ。
 「甲子鏡が言っていた。それを壊せば、鏡の世界から出られると」
 三蔵も机の残骸を睨んだ。まだ細かく舞っている木片の下、黒いオーラが見て取れる。
 「へーえ。本当かなあ? 鏡、壊されたくないんじゃない?」
 「…どうとでも受け取れ。壊してくれた方が、ありがたくはあるがな」
 「どーぅしよっかなーあ? 迷っちゃうなー、コレ」
  は困り顔を作って、天井を見た。そこからくるくると目を回しながら、部屋の奥の扉で視線を止める。三枚の札が張られた、鉄の扉で。
 「だってさ、アンタこーんなワルでも、いちおーは昔から伝わる宝物でしょ? 壊してやりたいのはやまやまだけど、それでお咎めくらうのも嫌だしー? ちゃんと、甲子鏡としての役割を果たさないとね? ってアレ? 役割とか、あったっけ?」
 「やりがいのない、つまらんことだけだ」
 「うん、仏の教えに忠実にいつも鑑みよ、だよね? 鏡の裏に彫り残されてる言葉」
 「そんなもの、わざわざ語り継ぐほどのことか?」
 「ねー? 封印してまでとっておくって、変だよね? だって、玄奘君の話だと、魔力を持った鏡が在って、時の神っつーのが魔力を浄化してただの鏡へと変えたはず。え? 時の神って誰?」
  がこめかみに右人差し指を当てた。三蔵はそれを見ながら、時の神なるものが誰なのか思い出そうと努めた。いや、判らない。
 木片も埃も大方舞い落ち終わった部屋に、沈黙が訪れた。沈黙は、 が溜め息混じりの台詞で壊す。
 「何で、アンタはへっきで現世に干渉してんの? 判らないなあ。甲染僧正が玄奘君に話したことにも矛盾ありまくりだし。ま、こっちは騙すための要素が多分に含まれているとしてもよ? ものすごーく、気になることだらけ。ホントはそんな矛盾飲み込んで、カタつけんのも悪くないけど—…」
  はゆっくりと歩んで甲子鏡へと近付く。歩を進めると、木造の床がギシリと鳴った。机と一緒に床にも衝撃がいっており、床が捲れ上がっているところもある。彼女は、いざとなれば易々消せる足音を、わざと出した。
 「アンタみたいなのがあと九個あると思ったら、それは簡単に終わらせるのは良くないカモー?」
 「—…お前は、本当に、一体何なんだ?」
 「いや、何だかんだと聞かれても、答えてやれない時もある? うーん、タイムトラベラ? いや、うーん、ディメンション…何たら? えー、判りません。言葉では定義不能」
 小首を傾げた は、甲子鏡が埋まっている場所の手前で膝を折った。
 「まあ、あたしのコトはともかく。アンタが鏡の間を行き来出来ても、逃がしはしないわよ。アンタだって、もう逃げたくないでしょう? せっかく自由になれるかもしれないのに?」
  はせせら笑うかの様な表情を作った。
 「先程の話を聞いていたのか?」
 「何のこと? アンタが玄奘君に何を言ったか知らないけれど、でも、あたしの手元にあるこ鏡から出られるってことは、そういうコトでしょ?」
 「私の邪魔をするな、人間」
 「お断り。あたし負けるの大嫌い。ねえ、教えてよ。アンタはどうやって甲染僧正に取り入ったの? 封印されたって話が本当なら、きっかけがあったはず」
 「…お前に教えることはない」
  は大袈裟に溜め息を吐いた。また鉄の扉に目をやる。札に書かれている朱書きの文字は読めない。意味が判らない、ということだ。目を凝らして字面を記憶しておく。
 「話を少し変えましょう。甲染僧正は、玄奘君に『甲子鏡を厳重に封印するために、乙午寺の雁乙僧正に助けを乞うた』ことを話しました。乙午寺はここから一番近い、十干の名を戴く宝物があるお寺です。貴男方の話は信用ならない部分が多くありますが、これもその一つかしら? 本当に、雁乙僧正に頼ったのですか?」
 甲子鏡は答えなかった。
 三蔵は、 が何故そんなことを聞き始めたのか、意図が判らない。彼女の喋り方がまた変わったことで、このことには重要な何かがありそうだと思えるが…。
 「…ああ、もう。色々考えるんだけどさ、どーにも、もう面倒だわ」
  は投げやりに言った。
 「あたしの希望としては、これ以上時間が掛かるのはヤだから、同じ土俵で勝負しない? 私を、鏡の世界へ入れてよ」
 甲子鏡は驚いた。わざわざ、相手の有利と思われる条件で勝負を挑むなど、無謀だ。
 しかし、甲子鏡は三蔵の記憶を読んで が使う手が何かを思い出した。
 本当にそんなことが出来るのならば、の話だが。
 慎重に選択しなければならない。
 この という女が関わることは、甲子鏡は予知し切れていないからだ。
 自分が辿る道は知っている。とうに知っている。目の前の女が引っ掻き回すこの現実を、どう捉えて軌道修正するべきだろうか。
 「同じ土俵ということなら、お前が持つその鏡を割り、私を鏡の世界から出してくれ」
 「…本当に出られるの?」
 「そうだ。私は、元々、神に近付きたくて修行していた仙人だからな」
 「妖怪仙人?」
 「いや、違う」
  は口をへの字に歪める。
 「実体化出来るわけ? 神に封印されるなんて、余程のことをしたのね?」
 「人身御供も同然だ」
 神様がそんなことするはずはない、とは反論しなかった。 はそういう神々も居ると知っていた。
 例え、どれだけ善行を積んだと持て囃されている神であっても、中には信じられないほど残酷な行為をする者も存在する。
 甲子鏡の言葉の全てを信用は出来ない。
 それでも、甲子鏡の嗤い方が気になった。本気で神を嘲っているような声音だった。
 甲子鏡は、 が何をするつもりかと必死に近未来読みを試みていたが、全くみえなかった。この女は危険過ぎると改めて思う。もう少し先の未来をみることにする。数年前からの結果と変わらなかった。
 そうこうしている間に、木片が取り払われ、甲子鏡は部屋の薄暗い光を再び見ることになる。
  は甲子鏡を覗き込み、言った。
 「アンタを外に出すのはヤな感じがするからしない。どんな事情があろうと、最終的に玄奘君の邪魔になるなら、絶対に許さない」
 「元より共存の道はなし、だな」
 「諦めたら? 命まで取らないから、玄奘君と経文のことは諦めて」
 「諦められるか! 私は、必ず生き残ってみせるッ!」
 甲子鏡の怒りの声に、 は疑問を覚えた。引っ掛かりを感じる。些細なことだ。気に留めるほどのことでは、ないはず…。
 「ねえ、アンタの予知では、明日も生きているのは、誰?」
 「この私だーッ!!」
 鏡面が鈍色に歪んだ。渦巻く鈍色はやがて漆黒へと変化し、触手となり へ伸びていく。










**長くなりすぎたので、分割アップ。続きは近日中にアップします。
前話などで甲子鏡の鏡の字が境になってますが、これも近々直します。申し訳ありません。
*2009/06/14up

夢始 玄象夢始