桜華別路之禍梯第拾話「学」 淡く差し込む太陽の光が、若々しい青葉を包んでいる。艶やかな双葉に、順調に育っている事が伺われた。小さな植木鉢に小さな双葉。白い窓枠にぽつんと置かれた植木鉢に、水をやろうと影が近付く。 象さん如雨露を持つその人は、観世音菩薩。 畏れ無きを施す者――…。無限の安心を与えると崇められる、彼と謂うべきか彼女と謂うべきか―……は、機嫌良さそうに水をやっていた。 「よし、順調♪」 呟いて、彼は踵を返し、如雨露を片付けに部屋を出た。 「観音」 は観音の仕事場を訪れるのは初めてではない。軽くノックの真似事をして、声を掛けた。 が、部屋の主は不在だった。今はお昼。やはり、昼食に出掛けてしまったのかと思うが、待つのも悪くないと思いソファに腰掛ける。ふと目を遣れば、観音の仕事机越しに、うららかな光を浴びた植木鉢が見えた。 双葉の水滴が光っていて、綺麗。 同時に突飛な想像をする。一つの茎から二つの葉。 と悟空。 見蕩れていると、二郎神が声を掛けてきた。 「おや、 。いらっしゃい。どうしたのかな?」 「今日和、二郎さん。この前の約束の事で来たの。観音が金蝉の所に来た時、本を貸してくれるって、約束したの。今日って、指定があった訳じゃないけれど、観音はどちらに?」 「ああ、菩薩なら、じき戻ってこられる筈。もう、昼食は摂られたから、水やりかな?……いや、水やりは終わっているのか…」 「そうみたい。じゃあ、ここで待っていても良いですか?」 「そうしなさい。今、飲み物を持ってこよう」 「ありがとうございます」 二郎神は別名『清源妙道真君』。楊ぜん、と書くと見覚えのある方も居るかも知れない。彼は道教では清源妙道真君・楊ぜんで知られ、仏教では顕聖二郎真君で通っている。他にも呼び方はあるが、メジャなものはこの二つだろう。 とはいえ、ここでは二郎神と呼ばせて頂く。 本来は観音の只のお付きではなく、治水、武神として信仰されている神なのだ。そんな彼が何故観世音菩薩の脇侍をしているのか? には判らないし、金蝉も詳しくは知らないそうだ。本人に聞いてみようか。立ち入った事になるだろうか。 二郎神の出ていった部屋は、無音に包まれた。 そこへ、観音の気配を捕らえた は、入り口を見遣る。 「…何だ、 か。ああ、こないだの話だな? いいぜ、奥に付いて来な」 「今日和、観音。お邪魔しています。突然尋ねて何だけど、本当に時間良いの?」 「構いやしないさ。良いサボリの口実だ」 笑いながら、奥の書室に入って行く。後を追う は、敢えて突っ込みもしない。 書室は、 が思っていたよりも蔵書が多かった。壁三面に備えられた本棚と、びっしり並ぶ本。金蝉の部屋には、辞書以外では数冊しかないから余計そう思えるのだが。 観音は、こう見えて、実は勉強家なのだろうか? 素朴な疑問が浮かぶが、尋ねようか迷う 。ロスタイムの内に、お茶を持ってきた二郎神が到着した。 「ああ、菩薩。菩薩もお茶を飲まれますか?」 「おう、茶菓子も出してこい」 「はい。 は、抹茶も餡も平気かな?」 急に話を振られた は二郎神を仰ぎ見る。 「まっちゃって、何? あんこは知っています。甘く煮たお豆でしょう?」 「そう、餡は小豆を砂糖で煮た物だが…。そうか、抹茶は初めてか。甘い物だけが好きなら、どうかな〜?」 「酸っぱいの? 辛いの?」 の疑問に、観音が答える。 「苦いんだよ。だがな、抹茶デビューの には勿体ないくらいの、極上の茶菓子があるんだぜ? ありがた〜く、食ってけ」 「…うん。食べてみたい」 心なしか、 の声の響きが違うなと、観音は感じた。どうやら、食にも関心が高いようだ。 これでは、ますます見たくなるではないか。初めて抹茶を口にした、無表情なお子様の顔がどうなるのか……! 「はははは。じゃあ、向こうに用意しますね」 二郎神が仕事部屋見行くのを見送って、 は観音に尋ねる。 「道教と仏教の事が知りたいの。中華の生い立ちも知りたい。どれがお勧め?」 生い立ち、とは面白い言葉を使う―…。観音は、本人が意識して使ったのだろうかと考えながら、本棚から幾つか候補を選んだ。 「まあ、時間はたっぷりあるだろ。まずは天地創造からで良いんじゃねえの? お前、漢字は読めるよな? 難しいのでも平気か?」 「平気。字を調べるのも好きだし」 「そうか。…じゃあ、そだな、まずは、この三冊から読んでみろ」 「ありがとう。返すのは早い方が良い?」 「うんにゃ。何時でも良いさ、そんなモン。それより、ゆっくりしていけ」 観音の言葉に甘えて、 はゆっくりしていこうと決めた。ゆったりお茶を飲んで、一息つく。出された茶菓子に、内心喜々として手を伸ばす。茶菓子は小豆餡を餅で包んだものと、同じく餅の中に抹茶餡が入ったもの。外側は抹茶がふりかけられていた。 まずは餡を選んだ。餅の仄かな甘味の後で、盛大に押し寄せる餡の甘さ。 は至福の時を感じる。 甘露。 そして、抹茶。楊枝で刺し、口元に運ぶと仄かに薫る匂いに満足する 。粉が少し落ちるので左手で皿を持つ事を忘れない。 は手早く丸々一個口に入れた。 の前に座って居る観音が、猫目になり、口角を思いきり上げて笑おうと構えている。既に、彼の中で幾通りもの の表情が浮かんでは消えた。 にしては、早急だったかも知れない。苦いという味覚に疎かった事もあるが、想像範囲外の味であった。 口の中が一瞬で乾いた気がした。抹茶は沙粉であったにも関わらず、 の舌の上ではざらつきが強調される。甘噛みを繰り返した所為で、唾液がじんわりと口蓋に沁みるのが判った。やがてゆっくりと咀嚼し始めたが、 の双眸には、うっすらと涙が滲んでいた。 『ぶッ』 様子見に徹していた観音と二郎神が、同時に吹き出した。二人の反応を見て、 は次第に頬を赤くする。 (…恥ずかしい。って言ってられないくらい、苦ッ) しかし、 は飲み込み終わる頃には、抹茶の味を受け入れていた。苦味。こういう味もあるのだと。 餡と餅の甘さに助けられ、 は何とか食べ終えた。一気に烏龍茶を飲み干し、溜め息とも取れる吐息が出る。 「…ごちそうさまでした」 「良く食べたなあ、 」 にこにこと、子供に接する二郎神は倖せそうだ。彼は抹茶が好物であるが、七つ、八つの子供では好き嫌いがはっきり別れるだろう。 「これも食べなさい」 二郎神が の皿に、自分の小豆の餅を移す。手際良く烏龍茶のお代わりを注ぎ、 を促した。やや驚いた が二郎神を見るが、彼は一度頷いただけ。 「ありがとう」 礼を述べて、今度は味わうように二口で食べた。 「何だ、二郎神。やけに優しいじゃねえか? 子供好きだっけ?」 観音がからかえば、二郎は照れ隠しに苦笑いを返す。 「何だか良いではないですか。こう…ほのぼのしてて」 「ふん。イキモノだからな。 も、それから、あのチビ猿も」 チビ猿。訊いて は、二郎神から貰った餅だけでも、悟空のお土産にすれば良かったと後悔した。躊躇いはあったが、悟空にも食べさせてあげたい。 「あのぅ…もし良かったら、悟空のお土産に、このお餅貰えませんか?」 遠慮がちに言う に、観音は軽く承諾した。 「いいぜ。餅くらいくれてやるよ」 「ありがとう、観音」 「正し」 「…正し?」 を真っ直ぐ見つめる観音は、にやりと笑って、 「チビ猿の反応も見たいな…。俺が金蝉の所まで送ってってやる」 と、言った。午後の仕事はすっぽかし決定。二郎神は止めるが、聞き入れる観音ではない。楽しげな笑みを崩さずに、 に告げる。 「よし、早速行くぞ」 「水差して悪いけど、悟空はまだ帰ってないわ。天蓬元帥のところで絵本を読んでいる筈よ」 「何だと? あいつの家は何処だっけか?」 はて? と疑問気な顔を二郎神に向けるが、二郎神は睨んで応える。 「菩薩。駄目ですよ! 仕事はきちんとこなして頂かねばなりませんから。どうしても金蝉童子や天蓬元帥のお宅に向かわれるのなら、仕事を終えてからにして下さい!」 生真面目な二郎神に肩入れするかのように、 が後を継ぐ。 「うん。その方が良いと思う。悟空はどうせ、夕飯前には帰って来るから」 「夕飯…。判ったよ。んじゃ、金蝉に言っとけ。菩薩様のために、盛大な宴を用意しとけ! ってな」 「うん、言っておきく。二郎さんもいらっしゃいますか?」 「は? ええと、はい。私の分も、宜しければ…」 「大丈夫。二郎さんの分も用意して貰います」 が心持ち口の端を上げたので、二郎神も観音も目を見張った。話の成り行き上、帰ろうとする を二人は引き止め、ゆっくりしていけと世間話をし始める。 途中からはつられた の質疑応答の時間となり、天界や下界の詳細について二郎神から説明があった。それに観音が口を挟んで、講義のようになる。 盛り上がった所で三時近く。流石にこれ以上は、と二郎神が止め、 は帰る事になった。重い本を抱えてよろけるでもなく去って行く彼女。じゃらじゃらと鎖の音が響く。 廊下で を見送った二郎神は、二人の異端児の行く末を案じる。 急な想像に彼は呆れたが、 に付けられた枷と鎖を思うと、普段忘れ去っている嫌な現実が脳裏をもたげた。彼は観世音菩薩は信じている。釈迦がどうであろうと、天帝がどうであろうと。 楽しい時間程、終わりは早い。 居心地の良い場所は、失うのが恐い。 この天界では、約束されている筈の永遠の刻と平和。綻びは、何時の時代でも、何処にでもある……。 二郎神は。 祈るような気持ちで が進んだ廊下の果てを見つめ続けた。 一体、神の端くれである自分が、何に祈るのか。それすら、判らないまま。
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