桜華別路之禍梯第拾弐話「扇」 下界で謀反があったらしい。 らしい、というのは、まだ正式な報告を受けていないから。 誰が反逆したかには余り興味がないが、どの部隊が動くのかには興味があった。 最近の流れからすれば、当然のように―……。 天蓬は、自分の中に不快な感情が生まれるのを他人事のように認識した。 「今日和、天蓬さん。お久し振りです」 瀬玉 は、久方振りに天蓬の部屋を訪ねていた。実際に入るのは初めてだが。 昨日悟空から、 瀬玉 が借りたい本があるから訪ねたいと云っていた、と聞いている。即答で大歓迎です! と、答えていた天蓬は、上機嫌で挨拶を返した。 「はーい、今日和。天ちゃんって、呼んで下さいね♪」 「……天ちゃん、六韜って本、あったら貸して下さい」 「おや、 瀬玉 は兵法に興味があるのですか?」 「少し…」 「あるにはありますが、偽物で良ければ…」 「偽物…」 六韜三書。古代商(殷)王朝末期に活躍した太公望という人物が著したとされる有名な兵法書である。 「じゃあ、太公望に関する本はありますか?」 瀬玉 は太公望に興味があるのか、と天蓬が勧めたのは、周本紀と竹書紀年であった。 「貴女は小説にも興味がありますか? それなら、お勧めの幅も広がるのですが…」 「うん、好き。何があるの?」 瀬玉 が部屋を見渡せば、書籍類の他に人形やら何やらが所狭しと並んでいた。聞きしに勝る煩雑さだ。捲簾から天蓬の部屋の様子は伺っていたが、自分と悟空でもこうはならないだろうと 瀬玉 は思う。 二日前に、捲簾は天蓬の部屋の片付けを悟空と三人でやったと話していた。それでこの荒れぶりかと思うと、最高時は子供ぐらい埋まってしまうのではないかと心配になった。 そして、聞いていた以上の本の数。悟空がはしゃいで本棚を倒したという話は聞かないが、そうならない事を祈るばかりである。 悟空はというと、またもや金蝉の書斎を汚し、インク落としの真っ最中である。切れた金蝉の見張りの元、せっせと雑巾掛けしをているだろう。 弟を思い出していると、丁度天蓬から尋ねられたので、机と椅子をインク塗れにした経緯を話す。 天蓬は短くなった煙草を灰皿に押し付ける。 瀬玉 はホッとした。ここは天蓬の家なので、言い出しづらかったのだ。 「そうだ、太公望の事なら、観音に訊いてみては如何です?」 「観音?」 天蓬スマイルで微笑んで、彼は 瀬玉 の為に椅子を引いた。自分も腰掛け、彼は話し始める。 「観音と太公望は古い知り合いな筈ですよ。同じ崑崙山出身ですし。僕は仙道の事については疎いのですが、確か同じ師匠…まあ、つまりは天帝なんですが…彼に師事していましたから」 「……天帝? 天界の偉い人ね。凄い人だったのね…」 無感動な声だったが、 瀬玉 はやや驚いていた。金蝉の口からも、観音の口からも良いようには言われていなかった人物である。 天帝が昔、道教の教主である事は聞いていたが、観音の師匠だとは教わっていない。 ということは、観世音菩薩は、昔仙道であった事になる。道教から、仏道に帰依した事になる。 「ねえ、天ちゃん。天帝は、私達姉弟を、下界に返してくれる?」 瀬玉 の疑問に、天蓬は正直に答える。 「無理ですね。今の天界は、病的なまでに保守的です。異端児だと謂われている貴女達姉弟を野放しにはしませんし、基本的に無殺生を貫きたがる天上人は、殺しはしない。貴女達を手元に置いておくつもりでしょう」 「ずっとここに居なきゃいけないんだね…」 哀しそうな響きを感じ取った天蓬は、暫く言葉が紡げなかった。 地上で生まれ、地上で育った 瀬玉 と悟空では、天界に馴染めないのだろう。無理もない。天界生まれの自分ですら、嫌気が差す事しばしば。こんな、閉鎖された楽園など、 瀬玉 と悟空には似合わない。 天蓬は瞬時に考える。自分がここに居続ける訳を。 ここで生まれたから? 他に行く所など無いから? 実は、離れ難く思っている? じわじわと、毒々しいまやかしに冒されて。 心が、安易な居場所を手放したがらないからだろうか。 時にまほろばの記憶は、天蓬元帥の現実を拒否したがる。 確かに、良い思い出もあるから。 そんなものに縋っているとでもいうのか? 退屈だと繰り返していた金蝉を思い出す。 自分には、本があった。 本を読む事で、発見と、逃避と、知識を得る快感を味わう。 軍人として戦う事も、そう嫌いではなかった。 「 瀬玉 、教えて下さい」 「何を?」 向かい合って座って居るので、天蓬の表情を見るのは容易い事。真意を汲み取るのは、難事。けれど、視線は逸らさずに、 瀬玉 は彼の目を見つめた。 「自由へのドアというのは、何処にあるのでしょう?」 余りにも唐突な。 年端もいかない少女に尋ねるような事ではない。天蓬の一部は非難する。残りの天蓬は、 瀬玉 に聞きたいんだと、否定の意見を押え込めた。 真剣な表情で聞かれても、 瀬玉 に答はない。なぞなぞみたい、と思う。 「さあ? 心? 頭? 誰にでもあるのは確かだと思いたいな。何処にあるかは…私も知りたいかも。けれど、…そうね、何処にも無くて良いとも思う。問題は、出入り口ではなくて、立っている場所だから。自分が自覚している居場所。その認識が先。それから、行きたい場所が決まる。私は、現実に立っている場所はただの天界で、行きたい所は下界」 今し方言っていたばかりではないか。姉弟の不自由を。なのに、天蓬は口にしてしまった。 「そうですね。すみません、こんな事ー…」 「良いよ、嬉しいから」 「は?」 間抜けた声を出す天蓬だが、 瀬玉 は口の端を上げる。彼には判らないだろう。 「こうやって話せるのが嬉しいの。金蝉の所だと、こんな話出来る人居ないもの。単なる異端の子供ー…そんな風にしか思っていない人ばかりだし、金蝉は仕事ばっかりだし。でも、ちょっと前にね、観音と二郎さんとお話をしたの。天地創造から周王朝まで。色々聞けたし、議論? も出来た。そういうのが好きなの」 金蝉が仕事に追われるのは悟空の悪戯に因る所が大きい。それに観音は仕事を減らさないでいる。 彼女は喋り過ぎたなんて思っていない。思った事を言ったまでだ。天蓬が驚いた顔していても。 「……僕も嬉しいですよ、 瀬玉 。貴女と、ゆっくりお話が出来て」 「邪魔じゃなきゃ、もう少しお話していても良い?」 「勿論です」 天蓬と 瀬玉 は、同時に微笑み合った。 「あ、 瀬玉 、お菓子食べます? 美味しいマンゴープリンが手に入ったんですよ~」 「うん、いただきます」 僕等は楽しくお喋りを続けました。マンゴープリンの美味しさは賞賛に値するものでしたが、そんなものより、 瀬玉 の思考。彼女と喋る方が絶品です。ああ、いや、食べ物と比較しても仕様が無い事ですが。 問題は自分の認識。何処に立っているのか。 ドアが在るような気になっていたけれど。 彼女が立っているのも、僕が立っているのも、同じ場所である事に違いはない。 彼女は、外に、下界に帰りたい。 僕は、別に、天界でなければ何処でも良いと思う。 天界が嫌だというのには、理由が沢山在り過ぎる。 忘れようとして、考えないようにしていたのかも知れない。 足元さえも、不確かにしていた僕は、今漸くしっかりと立てた。 新鮮な風に導かれるように、立ち上がれた気がする。 「問題は、出入り口ではなくて、立っている場所」 彼女の言葉を思い出す。 当たり前の事を、考えずにいた。 現状把握。普通の事じゃないか。判っていたはずなのに、聞いた時に驚いた。そんなにも、目を逸らしたかったのかと思う。 本当に、自由になりたかったのだろうか? 諦めてはいなかったか? 天界がいかに居心地の悪い場所であるか、そんな事を認識するのが大切なのではなくて。 どうして、気付かなくなってしまっていたのかなあ。 まるで何処かに閉じ込められている気になっていた。 思い込みで壁を作って、自分で勝手に何処か、否、作り物の天界の中から出られない、と。 ぼんやりと、外の世界へ逃避してしまいたいと、願っていた。 だったら、やっぱり、行き先が重要になる。ほら、ドアが必要だ。外に出る為には、どうしても。 でも? このまま外に出て、どうするつもり? ああ、駄目だ、溜め息なんか吐いちゃ。 彼女と話した事を、もっと良く思いだそう。 僕と 瀬玉 とでは、全く条件が違うのだから。彼女の意識に、壁はない。だから、ドアが必要ない。彼女の居る所は、ただの天界。 たかが、天界。 瀬玉 は、ドアを想定する事で行き先を明確に出来ると云った。 何処に行きたいのだろう。 本当は、何処に。 今は、風が吹く方向へ行ってみたいかな。 そこには、あるかも知れない。 自由や、楽しい事、気持ちの良い事、辛い事があっても、笑っていられる場所。 見ようと思えば、見える。 目が覚めた思いだ。 今、立っている場所からでも、見える。 見えていた。 瀬玉 の声が脳裏に響く。 「自分で歩いて行きたいと思う所がある。下界に居た時には、思いもしなかったわ。何しろあそこが、花果山が一番だったから。本当に、新しい所へ行きたいなんて、思ってもみなかったの。短い間だったけど、楽しかった。天ちゃんは行きたい場所を決めて、ドアを見つけて、その先で生きて行きたい?」 風が示す先に、光があると思った。そう見えた。 それが、僕の行きたい場所へのドアだ。 「帰りたい。私は、この気持ちを忘れない。いつか、下界に帰るわ」 せっかく見つけたドアだけど、 そのドアは、入口なのか、それとも出口なのか、僕は決める事が出来なかった。 けれど、そこを通る時は、 瀬玉 と一緒だったら良いなと、思った。 他にも沢山お話出来ましたねえ。僕は彼女の考え方に興味を持ちました。将来が楽しみです。 僕の思考のばらつきに、ちゃんと付いて来るのですから。安心して喋る事が出来ましたし。 何より、今日一番の収穫は。 また来てくれるそうです。僕の所に。 ああ、良かった。てっきり嫌われているのかと思っていましたから。 悟空はいつも来てくれるのですが、 瀬玉 は今まで一度も訪ねてくれなかったので、余計にそう思っていたんです。 でも、今日一日話が出来て、安心しました。杞憂で済んで、本当に良かった。 彼女と話していると、時間なんてあっという間。 また、会いましょうね、 瀬玉 。 出来れば、早いうちに……。なんて。
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