桜華別路之禍梯第拾伍話「疑」 招き入れられた李家は、静かなものだった。玄関の内装は華やかだが、裏腹に陰鬱な静寂があった。悟空と は顔を見合わせ、頷き合い、恵岸行者の後に続く。 一番近くの扉から、一人の男が現れた。 「これは。恵岸様、お帰りなさいませ」 「ああ。すまないが、私の部屋に、茶を三人分頼む」 「畏まりました」 使用人は去って行った。 「こっちだ」 恵岸は視線だけを悟空達に呉れると、どんどん前に行く。無言で続く二人。 二階に上がり、部屋に着く。椅子を勧められて、 は礼を言った。 「なあ、那咤は何で闘ってばっかりなんだ?」 悟空が無遠慮に聞いた。流石悟空…と思う は、恵岸を見る。 「……それが奴の仕事。そして、存在理由だ」 「仕事? 那咤は働いているんだ…。存在理由って何?」 「……」 恵岸は答えない。 気まずい沈黙が部屋を支配しかけた頃、使用人がお茶を運んできた。 三人で茶を啜り、一息吐く。 「お前達は…」 「あ、俺の名前は悟空。こっちはねーちゃんの 」 ちゃっかり自己紹介をして、満足そうに微笑む悟空。 はぺこりと頭を下げた。出鼻を挫かれた恵岸は少し不機嫌そうだったが、悟空は気付かない。 「奴が生まれた理由が、闘うためだからだ」 「何で?」 即聞き返す悟空に、恵岸は何処まで話そうか迷ってしまう。しかし、躊躇いがちにも口を開く。 「父上は、次に生まれてくる男の子には、自分の後を継いで欲しいと思っていた。そして生まれたのが那咤だ。だから奴は、父上の意志を継いで、もっと高い地位を得られるよう戦いに身を投じているのだ」 は、恵岸の反応を見たくて、言う。 「…それは…親孝行なんですね、那咤って」 「そうとも言うな」 恵岸は鼻を鳴らして自嘲気味に笑った。次は悟空だ。 「えっと、那咤はしたくてしてる事?」 「勿論」 「ふーん、そっか…」 珍しく悩み顔の彼は、少々納得いきかねる様子。 「そんなに気に入らないなら、本人に直接聞いてみるといい。本人からの言葉ならば、信じるだろう?」 はここで気付いた。ちょっとした、違和感に。この人は、まるで那咤を他人扱いしている―…。 「あの、立ち入った事を聞いて申し訳ないのですが、李家は、お父上と恵岸さんと、他はどなたがいらっしゃいますか?」 「母上がいらっしゃるが…長い事病に伏せっておられる。後は、兄上が一人。普段は居ないがな。…………五人家族だ」 長めの沈黙の後、恵岸は五人家族だと言った。 李那咤。李家の三男。そんな幼い彼に、一家の命運を背負わせている。戦という方法で。自分たちとは全く違う彼の境遇を、初めて知った悟空は、次の言葉に困った。沈黙は再び訪れる。 暫く考えたのち、 は口を開く。那咤には関係がない事だ。 「恵岸さん、観音の事について聞いても良いですか?」 「ああ」 少し驚いた恵岸は、今日初めて真っ直ぐ を視た。異端の金眼を意識する。 「観音は、昔、崑崙山と謂う所に居て、天帝を師匠としていたそうですね。どうして、道教から仏教に帰依されたのですか?」 「…良く知っているな」 「はい。天蓬元帥から教えて頂きました」 「天蓬……ああ、あの人か」 「観音は仙人だったのですか?」 「…そうだ。昔は慈航道人と謂う仙号で呼ばれておられた。崑崙と謂う所は、現天帝であらせられる、元始天尊様を教主に成り立っていた。その下に崑崙十二仙と謂う元始天尊様の直弟子達、そのまた弟子達、道士などで構成されていた。例えば、十二仙には慈航道人や普賢真人、文殊広法天尊達が居て、直弟子には文殊広法天尊様の弟子として、兄の李金咤や、普賢真人様の弟子として私・李木咤が居る。恵岸行者とは、法名だ。今名前を挙げた仙人は、釈迦如来様から認められ、仏の道に入った。そして、菩薩の称号を与えられたのだ。…同じ十二仙の弟子では、楊ぜん…今の二郎神も帰依しているな」 一息吐く為、恵岸はお茶を口にした。 は今の話を反芻し、悟空は、半分気が遠のいたような顔をしている。恐らく、固有名詞が沢山出て来て混乱し、覚えようとして無理をしたのだろう。どれだけ飲み込めているのか疑問である。 「そう易々と道教から仏教に移れるものなのですか?」 「…さあ、他の方々は与り知らぬ事だが、私自身には悪い話ではなかったからな。恐らく、特に……元始天尊様と、文殊様、普賢師匠にも…」 「不快に思われたら聞き流して下さいね。…そのまま…例えば、普賢さんの弟子だった貴男が、どうして今は観音の弟子になっているのでしょう? そのまま普賢さんには付いていけなかったのですか?」 「……妙な所に疑問を持つな、お前」 「……すみません」 「まあ、良いさ。まあ、…………………………………………………色々あってな……」 「はあ」 今までで最大級の沈黙の後、瞳を閉じ、呻くように声を絞り出した恵岸だった。 少し気になったが、失礼に当たっても何なので、 はそれ以上聞くのを止めた。 「あ。お兄様と貴男は、仙道出身なのですよね? お父様もですか?」 「…ああ、父上は、度厄真人様の弟子として修業していたさ。母上は違うぞ。母上は普通の方だ」 「仙人として必要なものとは何ですか? 遺伝ですか?」 「遺伝…。まあ、それもある。我が家は恵まれているのさ。親戚を含めた李家の血筋には、他にも何人かは仙道が居るが、大した力は無い。仙道として必要な、仙人骨がありながら、一人前だとは認めて貰えなかった奴等ばかりだ」 「一人前…」 試験でもあるのだろうかと、 は思う。 の思考を読んだかのように、恵岸は喋る。 「昇格試験がある訳じゃないぞ。まず道士として、一人前と認められるには、途方もない修業を積んでからだ。師に認められると、宝貝(パオペエ)、と謂うものを頂ける。仙人になれるのは、もっともっと後だ」 「ぱおぺえ…」 「それが一人前の証。仙人にならなくともな。因みに私と兄上は道士だったが、それぞれ一つづつ頂いた」 「お父様は?」 「あの方は……」 恵岸は一度口を噤んだ。ニヤリと口の端を上げ、 を見遣る。 「才能が無かったのさ」 もう良いだろうと思い、 は訊く。慎重に恵岸を観察しながら。 「では、弟君は?」 恵岸の視線が鋭くなった。 は平然と受け止め、「那咤は道士ですか? 仙人ですか? 単なる天界人? 今、年は幾つです?」と、聞きたい事だけ訊いた。 「……あいつは…」 答えるべき解は、恵岸の口から出せなかった。当たり障りのない事を言えば良いものを、どう言えば嘘にならないか、という境界を探してしまう。 「! 何か下が騒がしいぞ!?」 「恐らく、帰って来たのだろう」 助かった、と恵岸は思った。しかし、 はそんな僅かの隙も逃さない。 「誰が?」 はわざと挑むような目つきで恵岸を見据える。 視線は合わさり、こちらの意図も伝わったかのように思えた。が、答えたのは悟空だ。 「誰って、那咤だろ?!」 走って下に行った悟空と、部屋に残った と恵岸。睨み合いは、 から止め、お辞儀をして悟空の後を追い掛けて行った。 ふう、と短く溜め息が出る。 「… だと? 何なのだ、あの子供……」 一つ嘘を吐いた。父・李靖はモノの役に立たない宝貝を貰ってはいた。お情けで。 それにしても、何を感付いたのか知らないが、二人を家に招き入れた事を、少し後悔し始める恵岸だった。無意識に、自分は――……。 金晴眼。あの眼は、何時か、蔓延る闇を暴く。 これは予感。 いや、 これは予定? 釈迦如来の。 そんな筈はないとかぶりを振る。釈迦如来こそ、諸悪の根源ではなかったか? 恵岸は、自分の立場が急に危ういものになったのでは、と錯覚する。所詮は駒の一つに過ぎぬと、諦めてしまう程割り切りの良い性格ではなかったが。 「那咤!!」 「お前、あの時の…。何で此処に?」 悟空は目を瞠った。那咤は全身傷まみれで、血は垂れ流し。どうして? 手当ては? 「何だよ、その怪我!!」 「っ…ちょっと、しくじった」 無理に笑おうとする仕草が痛々しい。やっと玄関を抜ける所だった那咤は、視界が歪んだ事で足を止めた。 「!?」 急な眩暈に襲われ、意識を失いかけ、倒れる。悟空が間一髪助けに入り、声を掛けた。しかし、那咤の耳には届かなかった。 唯一、那咤の意識に残ったのは、やっと駆け付けた の姿だった。
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