桜華別路之禍梯第拾陸話「夢」 これは夢だと思った。 那咤は、重い瞼を閉じる。 何度か、夢の中で、これが夢だと気付く時があった。こんな話、夢でしかありえないじゃないか。 再度目を開けると、そこには、やはり金色の眼が二対もあった。 黒髪の少女の膝元で横たわっていた那咤は、少女の腰まである長い髪に触れてみる。 さらさらと。彼の手から逃げるような感触。 少女と反対側に座って居た少年が、にっこり微笑む。その笑顔に、安堵を覚えた途端、世界が暗転した。 夢でも良かったんだ、会えたから。それだけで。 次に現れたのは、彼の父親。那咤の顔が、すぐに引き攣る。 二人切りの時には優しい父が、悪魔のような形相をして立っていた。 「お前の存在理由は、闘う事のみ。闘って、勝ち続ける事だ。生きていたければな。お前の代わりは幾らでも居る。要らなくなって、捨てられなくても済むように、私の為に働くんだ。さあ、我が息子、那咤―…」 喜劇と偽った狂気が、お前の舞台だ。 目を開けて、闘い続けろ、闘神・那咤太子! 「…っ!?!」 反射的に身体を浮かしかけるが、土台無理な話だった。那咤の身体は素直に悲鳴を上げる。痛みの中で見開いた瞳には、夢の中と同じく、黄金の瞳が飛び込んできた。 那咤が唖然としていると、少年が声を掛ける。 「良かったあ! やっと目が覚めたんだ!」 「貴男、一日近く眠っていたのよ」 安堵の溜め息を吐く右側の少年と、相変わらずにこりともしない左側の少女が、それぞれに喋った。 「……お前達…」 「気にしないで、また眠った方が良いわ。私達なら、那咤の側に居るから。…駄目なら、帰るけど…」 「! 駄目じゃない!! 帰るな! …ここに…側に…」 後が続かない那咤の言葉を引き継いで悟空が優しく言う。 「うん、一緒に居るから」 ホッとした那咤は、ふと視界に入ったそれを凝視する。ベッドの脇に、色鮮やかな存在。 「…花?」 「ああ、うん。ねーちゃんがさ、ひとっ走りして、貰って来たんだ。キレーだろ?」 椅子の上に置かれた白い陶器の花瓶には、綺麗な黄色い花が挿してあった。那咤には花の名前は判らない。それでも。 何だろう、この気持ち。 ふいに、鼻の奥と、両耳の奥までが痛くなった。 今まで倒れたり、深手を負っても、決して泣かなかった。涙なんて、自分にはないんだと。涙を流す回路は、自分には無いのだと。ずっとそう思ってきた。 結局涙は出なかったけれど、那咤は を視て、笑った。 「ありがとな!」 「…いいえ、どういたしまして」 つられるように、 も少し笑った。 那咤が運び込まれた部屋を見て驚いた。何もない。生活感のまるでない部屋だったから。ただ必要なベッドやタンス、椅子、小さな机…。お菓子の入った袋が机に置いてなければ、とても子供の部屋とは思えなかった。実際、彼が幾つなのか、 は知らなかったが。 窓すら無い陰気な部屋で、那咤はいつも過ごしているのかと思うと、急に言い様のない怒りが生まれた。兄の恵岸は付き添わないし、他の使用人も手当てが済むと出て行ったきり、一度も顔を出さずにいる。 何なのだ、この扱いは。那咤は、この家の為に、父親の為に働いているのではなかったのか? 恵岸の話の全てを信じた訳ではないが、息子に期待をかけている筈の父親は、一度たりとも来ていない。そもそも、この家に居るのかも判らないのだが、 は確かな怒りを感じた。 それは悟空も同意見だったようで、彼女は弟に後を任せ、屋敷を出た。 今、出来る事は? は本の中で得た知識として、病室に飾るのは花だという事を思い出し、観音の城に向かった。 「なんだあ? 花だと?」 「うん、そう。那咤にあげたいの。前に、いっぱい花があったのを思い出して…」 「まあ、な。ここには、要らねえつっても、花とか贈られてくるからな」 献上品である、数々の花束。いつも適当に飾っとけよと言うだけのものだ。 「どうした、そんなに息切らせて…」 「那咤がね、怪我をして帰って来たのよ。だけど、那咤の部屋って、何もないし、家の人も何もしてくれないの。だから、私がって」 真剣な瞳は、観音を見つめる。観音は見返し、ニヤリと笑った。 には意味が判らない。 「花束なんて、まるで、愛の告白でもするみたいじゃないか? なあ、 ?」 思わず絶句する だった。この人は、何を聞いていたのかしら? 「やっぱり、古今東西オトすには花だろう?」 「違います。一輪で良いの。貴方の為に、他の人が贈ってきたものだというのは判ります。ですが、どうか、一輪分けて頂けますか?」 急に他人行儀な喋り方になった に、悪かった、と謝って観音は彼女の小さな頭を撫でた。 「……私の方こそ、ごめんなさい。感謝します」 が選んだのは、彼女の好きな青―…ではなく、明るく、暖かい印象の、余りきつくない黄色。金蝉の髪の色、悟空の瞳、とも連想するが、それは那咤には関係がない。ただ、花を見て、明るい色で、那咤が心安らいでくれたらと思ったまでの事。 彼が喜んでくれた事が、素直に、単純に嬉しかった。 「早く元気になってね、那咤」 彼女の心からの言葉。 「ああ」 彼の精一杯の返事。 悟空も負けじと言葉を掛ける。 「また一緒に遊ぼうな!」 「ああ、約束だからな! いっぱい、面白いトコ連れてってやるよ! 美味そうな木苺がなっている所にも、青空が良く見えるだだっぴろい草原に、それから、動物のカタチした崖の変な生き物が居る隠れ家にも、いっぱい!」 金の瞳が、それぞれに那咤を見つめる。 「約束だ」 そう言って、那咤は両手の小指を差し出した。 「お待ちしておりました。金蝉童子様」 「恵岸か……。あの二匹が邪魔しているそうだな。直ぐに連れて帰る」 夜が近付いた頃、金蝉の館に李家から使者がやって来た。子供を二人預かっていると。 「御二人とも、愚弟と共に寝入っておられますので、恐れながら金蝉様に足をお運び頂く事になりました」 「次からは叩き起こして構わん」 不機嫌にそう告げると、金蝉は部屋は何処だと聞いた。 一緒に行こうな。三人で。いっぱい、いっぱい遊ぼうな。お前達と居れば、俺は、少しは人間らしく居られる気がする。 誰かに対して、笑顔を向けたの、久し振りだったんだ。子供と遊ぶ約束をしたのは、初めてだったんだ。 嬉しかった。 また会えて、嬉しいよ。 ーー…あっと、結局未だ名前聞いてないな。 あれから、名前出来たのかな? 呼びたいな、名前。 もっと呼んで欲しいな、俺の名前。 那咤って。 俺の名前にも、存在にも意味があるのだと感じたい。 呼んで欲しいんだ、お前達に。 そして俺も呼びたい。 「 」 「 」 目を覚ましたら、聞いてみよう。 なあ、お前等、名前は? って。 茶髪は笑ってくれるだろう。 黒髪は? また、少しでも、笑ってくれるかな? もう一度。 ねえ、夢の中の君、どうか俺に微笑んでよーー……
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