桜華別路之禍梯第拾捌話「遊」 は正真正銘、子供である。 捲簾大将は正真正銘、大人である。 …知っている者には、言わずもがなな事実。 が観察をするに、捲簾は子供のような人である。今だって、悪戯っ子のような光を目に宿し、鬼役の金蝉をからかっていた。金蝉は、既に肩で息をしている。 「悟空、広場には行っちゃ駄目ですよ〜」 「うんっ」 天蓬の声がした。 は桜の木の上から悟空を探す。彼は笑顔で駆けていた。一人、遠い。今は意味があるのかないのか、その場で大きな円を描きながら走り、笑い声をあげている。 確かに、天蓬の云う通りなのだ。特に金蝉は、騒動を起こした事を理由に、天帝の誕生祭から退席したのだから。 こんな風に反省の色もなく、遊んでいるのがバレでもしたら、要らぬ厄介事が増えると思われた。 金蝉に視線を移す。彼は、立ち止まっている。流れ出る汗を拭いつつ、誰から捕まえようか算段を巡らせているようだ。 近い順に、捲簾、天蓬、悟空。やっと気付いてか、きょろきょろし出す。 を探しているのだろう。 この鬼ごっこの暗黙のルールは、金蝉に捕まらない事。それだけだなはず。全くルールを決めずに始めた事で、いつに終わるとも知れない。 まず、金蝉には、鬼ごっこをしているという気持はないと思われた。怒りの矛先は、恐らく誰でもよくなっている。 達は鬼ごっこのつもりだが、金蝉は遊びではなく、本気で狩る者の目付きをしていた。 はその鋭い視線をまともに浴びる。 「……降りてこい」 「嫌」 の呟き声は聞こえていないはずだ。金蝉はどんどん に近付いてくる。しかし、金蝉は、どう木に登ったものかと考えなければならなかった。意を決して飛び付き、何とか登ろうと悪戦苦闘。 は、そんな金蝉を見ながら、逃げるタイミングを計っている。 金蝉が登り切り、 へと再び視線を向けた時、地上では捲簾が様子を見ていた。 「 、観念しろ」 「逃げたけど、私、怒られる理由ないと思うわ。貴男にも、もう、追う理由余りないんじゃない?」 「…………いいから、来い」 「嫌だったら」 悟空と賭けをした は、負ける訳にはいかない。明日のおやつが懸かっているからだ。 金蝉が が座って居る太い枝に寄り、手を伸す。掴むはずだった少女の白い腕は、金蝉の視界からあっさり消えた。彼の手は、空を切る。 は、座って居た枝から飛び降りた。枝に後ろ手を付き、足を伸ばし、くるりと後ろ回り。その反動で、枝が大きな音をたてて軋んだ。 に付けられている枷の鎖も、派手な音をたてる。地上までの距離は、四メートルもない程だった。 の着地と同時に、捲簾は意地の悪い笑みを浮かべて、桜の木に向かって左足首を振る。 「おーい。蹴るぞ〜」 金蝉が慌てた声を出す。 「馬鹿! 止めろ!」 「蹴りた〜い」 「止めろおぉ!」 まだ少し振動している枝から慌てて飛び退き、頑丈な幹に腕を回す。この大きな桜の樹ならば、捲簾が一度くらい蹴り付けたところで落ちるような事はないだろうと考えた。 「蹴らなきゃ〜」 「捲簾、てんめえ、そこで待ってろ!!」 「樹を蹴るなんて、可哀想な事する訳ないだろ? 、一緒に逃げるぞ」 「良いよ」 は捲簾と一緒に走り始めた。金蝉が制止の声を上げるが、聞く二人ではない。 「愛の逃避行は、誰にも止められはしないんだぜー?」 木を降り始めた金蝉に向かって、捲簾が大声で叫ぶ。 聞き付けた天蓬は、自分もと加わろうとした。だが、捲簾に対してムッとしたものを覚えただけ、数秒の間が空く。 「俺はねえ、天ちゃんと一緒がイイ〜。てーんちゃあああ〜ん!」 悟空の、底抜けに明るい声だ。この呼び声を無下には出来なかった。 「はいはい。今行きますよ〜」 天蓬は、いつもの笑みを浮かべて、手を振る悟空に応えた。 「これ、隠れ鬼ごっこに変わった?」 がぼそりと呟く。 「どうだろうな。つか、何やってたんだっけ、俺ら?」 「金蝉の似顔絵描き」 「一応、鬼は居るんだがな」 「一人捕まったらお終いで良いの? 今は二人見つかったら、かしら?」 「あのにーちゃんに、更に逃げろとは言えなくねえか?」 「確かに。金蝉は外れると思うわ。体力ないもの」 忍び足で移動し、灯台下暗しとばかりに、金蝉の家の前まで戻って来た。 「ここで待つか」 「そうね」 捲簾の提案で、二人は一息つく。 「最近どうよ?」 「また唐突に、何?」 捲簾の意図が掴みかねて、 は大きく瞬いた。見上げると、捲簾は地べたに座り込む。 の視線の位置としては丁度良い。首が疲れない。 「ここの暮らしに、慣れた?」 「慣れたけど、慣れたくない」 「…成程」 静かな静かな空間で、ゆったりと時間が過ぎた。金蝉の怒鳴り声すら聞こえない。 「どうなったかな?」 「多分、私達の勝ち」 「どうして?」 「不毛さに気付いて、中止。金蝉の疲労で、放棄」 悟空との勝負は、あいこだ。 「でもあいつ、けっこお負けず嫌いなんじゃねえ? いや、さっき会ったばっかなんだが何となく」 が微笑んだ。 「ケン兄は、強い?」 「ん? …腕っ節の事か?」 「うん」 捲簾は力こぶを作り、ニヤリと笑んだ。 「伊達に天界西方軍の大将務めてねーぜ?」 「少し、武術の稽古つけてくれない?」 の意外な申し出に、捲簾は目を丸くした。彼女も充分唐突だった。急に煙草が吸いたくなったが、我慢する。頬を掻いて、立ち上がった。 「いいぜ?」 「お願いします」 言うなり、 は構えた。腰を僅かに落とし、右足を半歩引く。 の構えを見て、捲簾は二メートル程、彼女と距離を空けた。捲簾も構える。 「使うのは身体だけ。…止める基準は?」 「皆が戻ってくるまで。それか、ケン兄が止めと言うまで」 捲簾は頷き、三歩前に出る。 は微動だにしない。 呼吸を意識して、捲簾はステップを踏んだ。 軽い息吹の音を、 の聴覚が拾う。 には、捲簾のジャブの動きが良く見えた。軽く重心をずらし、避ける。左からやって来る拳も躱して、 が半身を捻った。右膝蹴りを繰り出すも、捲簾にガードされてしまう。 捲簾は重い一撃に、顔を歪めた。そうだ、 には、足枷の重みがある。一つの枷が二十キロくらいある事を思えば、 のスピードと力は、半端ない。枷も鎖も見えているのに、その存在をいつも感じさせないのだ。 捲簾も蹴りを放つ。リーチの長さが有利だが、小さな身体を懐に入れないように、外れたのですぐに守りの構えにする。 打ち合いを続けて、五分程経った。予断を許さない の動きに、捲簾は荒い呼吸を強いられる。 真剣勝負である証拠だ。 「 、訊いていいか?」 「どうぞ」 も呼吸が速くなっていた。しかし、表情はいつも通り。 「何で急に、稽古をつけてくれなんて、言い出したんだ?」 「思い付き」 「本当に?」 「本当に」 「…あっそ」 捲簾は右ストレートで に狙いを定めた。これで、終わらせようと、思った。寧ろ、終わらせたかった。 「あーーーーっ!!!」 悟空の声に、思わず驚く捲簾。 はさっと躱し、大きく息を吐いた。 「ありがとうございました」 礼をして、捲簾を見る。 「ああ」 目に入りそうな汗を拭い、捲簾は、調子良く言う。 「あ〜イイ汗かいたなあ」 「うん」 も額の汗を拭う。お風呂に入りたかった。 「あらら。悟空の奴、凄い顔」 猛スピードで走ってくる悟空は、確かに怒り顔。悟空には、捲簾が を殴っているように見えたのだろう。悟空の後方に、天蓬と金蝉の姿が小さく見えていた。 「 〜!」 「おかえり」 の前で急停止した悟空は、勢い良く捲簾に人差し指を突き付ける。 「 に何すんだよ、ケン兄!」 「何って、お稽古」 「おけいこ?」 おうむ返しに訊く悟空に、 も説明をした。 「なあ〜んだあ」 ケタケタ笑う悟空の頭を、捲簾が荒い手付きで撫で回す。 「俺が を殴る訳ねーだろうが。ん?」 「あ、あはは。ごめんなさーい」 「良し、許す」 「悟空」 は、前を見たまま悟空を呼んだ。今、彼女の目には、疲労の色濃い金蝉と、微笑んで を見つめる天蓬が映っていた。 「何?」 「お願い。金蝉に、お茶とおやつの用意を頼んできてくれない?」 「ん! 任せといて!」 悟空は疲れ知らずで、まだまだ元気があり余っているようだった。駆けて行く様が、何とも軽やかだ。 一瞬の瞬きの後、 は口を開く。もう、悟空には聞こえない距離だろうという判断。 「ケン兄、付き合ってくれて、ありがとう。左腕、大丈夫?」 「んなモン大丈夫。それに、礼は一度でいいって」 「うん」 の返答を聞き、捲簾は彼女の顔を見た。相変わらずの無表情で、何の感情も読み取れない。金の双眸も、放っておけば何も語る気はないのだろうと思う。 「何するの」 捲簾は の白い頬へ手を伸し、頬を掴む。驚くくらいに、柔らかかった。むにむにと抓って放す。 「言いたい事があるんだろ?」 「聞きたい事があるのでしょう?」 「上手く言えねえが、那咤の事か?」 「ええ、関係あるわ。でも、那咤の事ばかりではないの。稽古を頼んだのは、行き詰まっていたから。上手に感情を抑えられなかった。情けないけど、それだけ」 「行き詰まる? おい、一人で抱え込むなよ」 「考える時は、いつも独りです。誰より私がきちんと考えなければならない。そうでない言葉を、語る気はないわ」 「お前さん、やっぱり、自分が子供だって事忘れてるだろ? いや、判っていないだろう?」 「子供だと出来ない事は、そう多くないよ。大人であっても、責任を全うしない人は、この天界には特に多く見受けられます」 「…責任?」 「ごめんなさい。話が飛んだ。…でも、私が、私に課した事です。総て、私が決めた事。けれど、実行出来ない、結局のところの鈍さが、腹立たしいの」 「判るような、判らんような」 「気にしないで」 「もっと、ちゃんと頼れよ? このケン兄を、さ。稽古以外にも、出来る事はあると思うぜ。 が困ってるんなら、俺が助けてやるから」 「…ありがとう」 「気晴らしにデートでもすっか?」 「ううん、いい」 軽く首を振ってまで云う を、捲簾は意に介さず、続ける。 「そーだな〜。それ以上の忘れ方は、八年くらい経ったらな♪」 「…それ、何?」 は顔を上げて捲簾を見た。捲簾の愉快そうな顔といったらない。 「オニーサンが ちゃんを可愛がってあげよう」 「何が?」 は間髪入れず聞き返す。 「八年なんて、きっとすぐだなあ…」と、捲簾は遠い目。 「だから、何が?」 「お・た・の・し・み!」 「期待しません」 詳細を聞かない方が良いだろうと、勘で判断した は、しかし、冷たい口調とは裏腹に、僅かに微笑んだ。 「ケン兄は、楽しい」 「そりゃ良かった。 の笑顔が何よりだ。 だって見たいだろう?」 「ええ、ケン兄も、悟空も、金蝉も、天ちゃんも、そして那咤のも」 (だから、私は、動かなくては。でも、まだ、動くには何かが足りない。切り札がないからなのよ、きっと。調べる事の糸口は見えているのに…) は、笑顔の悟空を見た。金蝉の表情などからも推察するに、おやつのお強請りは成功したようだ。 笑顔が続いて欲しいと、願う。 当たり前の事なのに、このままではきっと、失うものだという、予感。 ずっと、警鐘のように鳴り響く。正体は、 の頭の片隅で泣き続ける不安の塊だ。 その塊の壊し方が判らない。吐き出し方が判らない。捲簾と手合わせをしたお陰で、思考の表面の上澄みは取り除けたように思う。でも、まだ、奥底にある重いものが、常にその存在を訴えていた。 上澄みは、実際には消えてなどいない。勢いで四散しただけ。 静まれ、静まれ。そして、どうか消えて。 祈る。 水のように、月のように、夜のように、或いは、地に落ちた桜の花弁のように…。 不意に、 の頭上にも重圧が出来た。 捲簾の巨きな手だった。 痛いと思うほど、乱雑に撫で回される。 彼は何も言わなかった。 ただ、 をしっかり瞳に収めて、安心しろとでもいうように、力強く笑うだけ。 弧を描く眼差し、口元、それらが物語る陰影。 これが、優しさか。 は、心の中で捲簾に感謝をした。
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