桜華別路之禍梯第弐拾弐話「命」 「そうですか。……そう、それでもおかしくはない。…もうどうでも良い事ですけれど」 の方に身を乗り出すほど怒った恵岸は、彼女の言葉が理解出来なかった。 おかしくはない? もうどうでも良いだと? 「どういう事だ? 一体、お前は……」 「結局のところ、那咤の正体が何であろうと、私は構わないのです。だって、私だって人間ではありませんし。例え彼が妖怪でも、人間でも、そんな些末な事気にしません。ただ、元気に笑っていてくれればそれで良い」 は言葉を切り、居住まいを正した。 此処からが本題。 「那咤が笑っていられるようにする…。その為には、私には知るべき事、やるべき事が山積みでした。原因は何なのかを考え、根本から正す方法を見付けるなら、貴男に近付くのが一番良いと思ったのです。思った通り、とても重要な情報が聞けました」 彼女は口の端で笑ってみせる。 「……。執着したように見せたのも、私を怒らせたのも芝居の内、か」 「ええ、そうです。私が直接仮説を話しても、素直には正解を教えてくれないでしょう? だから、貴男から仰って頂かないと。…さて、少し話はずれますが、お父上である李塔天についてお聞きしたい事があるのです。宜しいですか?」 恵岸は頷かなかった。 「李塔天の目的は、天帝の座に着く事ですか?」 の問いに、恵岸は鼻で笑っただけだった。 「先程貴男は、お母様は妊娠していらっしゃらなかったと、そう仰いました。李塔天が連れて来たはずです。その時には、貴男はご不在だったのですよね? 一年間西方にお出掛けになっていたと、観音から聞きました。他の方から、その時の事を、どのように聞いていらっしゃるのでしょうか」 から完全に視線を外し、恵岸は家の者から聞いた話を始めた。 「母上はあまり外には出掛けない方だった。それを良い事に、父上は周りを欺く為に、母上が妊娠したと外で触れ回った。やがて、子が産まれるという設定日が近付き、産んでいない赤ん坊を、産んだ事にしろと、得体の知れない赤ん坊を、育てろと云われた母上は、日に日に気がおかしくなっていったそうだ。そして、その腕に那咤を抱かされた時、正気を保つのに限界が訪れ、気絶した。私が帰った時に、母上は小さな声でこう零したよ。赤ん坊を地下室で見掛けた、と」 「地下室には何があるのですか?」 「さあな。父上の趣味のものが集められていて、日ごとに増えていたから…物置のようなものだ」 物置。では、きっと、「あれ」も置いてある事だろう。 は確信して話を進める。湯飲みのお茶を飲む気はもうない。 「恵岸さんは入った事があるのですね?」 「一度だけ入った事がある。雑然としていた。広さはかなりあったが、もう一杯だと思う。父上は、物欲の激しい方だから」 皮肉気に嗤った彼は、お茶を飲み干した。湯飲みを机に置く際、 の顔が見えた。白い顔に金色の瞳。本人にその気はなくとも、輝いている。きっと、弱まる事などなく、輝き続ける、そんな空想を抱いた。 直視出来なくなって、恵岸は天井を仰ぐ。何もない、ただの象牙色の天井。 「今、案内して頂けますか?」 恵岸は、落ち着き払った彼女の意図が読めない。 「見てどうする? いや、入れるわけではないぞ。父上が鍵を管理しておられる」 「他の人に見られたら不味いからですね?」 「知るか」 「でも、那咤は地下室から連れて来られたのでしょう? お父上は、一体どうやって、那咤を誕生させたのか。貴男はお考えになった事がありますか?」 ある。勿論だ。 の方を見ないように、視線を机に這わせる。恵岸は頼りない自分の脳で散々考えた。そして出た答えはーー………。 「禁忌」 恵岸はやっとそれだけを呟いた。 「その通り」 も短く同意した。 李塔天は真新しい椅子に深々と腰を掛けた。 前の椅子は詰まらない騒動で壊されてしまった。気に入っていたものだったが、これはこれで中々上等な椅子だ。 愉快な事を思い出す。 あの天蓬元帥の、怒りの目。床に叩き付けた時の、痛みに歪む顔。 自分より位が上の天蓬を。足蹴にして罵った時間。 邪魔が入ったのは忌々しかったが、これからはいつでも気に入らない奴は排除してくれよう。 捲簾大将の無礼など、一度くらい見逃してやる。 さあ、始まりだ。 「この俺が天界の頂点に立つ為の」 これから起こる悲劇は単なる儀式でしかない。 扉がノックされた。 「入れ」 「失礼致します」 軍服の男が部屋に入る。些か若い面立ちの男は、緊張していると一見して判った。まだ新米のようだ。李塔天は見覚えがなかった。 「那咤太子が下界の反乱を平定なさったと報告がありました。明日の夜までには、ご帰還されるでしょう」 「そうか。御苦労だった」 「はっ」 合掌を止め、男は出て行った。 「早いな。もう二日は掛かると思ったが。回復速度が早まっているのか? まだ使えるとは思うが、二体目を用意する準備に取り掛かるか…」 那咤の身体は、度重なる戦で摩耗が激しいようだ。不死身に造ったつもりだったが、完全ではなかった。普通の天界人より回復力が高いが、それが仇となっている。 こんな筈ではなかった。計画を見直す必要が出てきた。 那咤が今使い物にならなければ、計画は確実に失敗する。 李塔天はそれを何よりも恐れた。 考えながら、彼は会議の時間に間に合わなくなる事に気付く。今やこの天界において、李塔天はとてつもない権力を手に入れていたが、今日はそれ以上の力を持つ人物達が集まる。西方浄土の人物とは、滅多に会えるものではないので、彼は気合いを入れた。 「あ、 !」 「ただいま」 駆け寄って来る悟空に微笑んで、 は部屋に戻ろうと歩を進める。 「待て猿一号」 「変な呼び方止めて。猿じゃないから、私」 仕事机に座っている金蝉を無視しようとした。声を掛けられて、仕方なく振り向く。 ああ、とても怒っている。隠す気も無いらしい。 「ただいま」 「そうじゃねえだろ。何処行ってた?」 「必要なところに」 「ふざけんな。いいか? 面倒だけは起こすなよ。お前等は、ここでは立場が悪いんだ。目を付けられるような真似はするな」 不機嫌ゲージがグンッと上がった金蝉は、 を睨み付けた。その視線を受けて、彼女は躊躇わずに言う。 「もう遅いわ。だからね、迷惑掛けるから、私、もう少ししたら此処を出ようと思う」 真っ直ぐに金蝉を見た。彼の紫暗の瞳を受け入れるように。または、拒絶するように。 すぐさま敏感な反応を見せたのは悟空だ。 「何だよそれ! 急に…意味判んねえ!!」 悟空に引っ掴まれた肩が痛かったが、 は悟空を見ずに金蝉に告げた。 「私、これからしたい事するの。もう、始めてきたところ」 いつもの無表情に、金色の瞳だけが異様に輝いて見えた。 金蝉は、自分の肌が粟立つのを感じる。 言葉の意味を、理解したくなかった。 だが、目の前の少女はそれを許さないとばかりに、ひと睨みして悟空を引き剥がし、寝室に入って行った。
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