桜華別路之禍梯第弐拾肆話「恤」 那咤太子、天界帰還前日の会話・壱。 「!!! 何だと?!」 「おかしいとは思いませんか? 一体、何年? 勿論、本当に精神的ショックは大きかったのでしょう。だから、一度は壊れた。けれど、回復の兆しもなく、まるで幽閉されたかのような扱いも、当然といえば当然。何故か。それが李塔天にとって、都合が良いからです」 「都合が良いだと……。作為的だと言うのか?」 「ええ。結界の種類には明るくないのですが、妙でしょう?」 「結界……」 「恵岸さん、お母様が大切ならば、確かめてみませんか? 私の言っている事が行き当たりばったりの、ただの思い付きなのか、否か」 ただ、可能性が出て来たというだけの事。彼女には。 しかし、彼には、とてつもなく大きな意味を孕んでいた。 「貴男も大切な人だから。守りたいの。ただ、お節介なら、そう言って。私、諦めるから。全部」 仄かな人は、言った。 一瞬の殺意は見抜かれただろうか? 那咤の心配は一点に集中された。 恐ろしさと愚かさに、五感が全て凍って、痺れていく気分。俺は今、何を考えた? と、自問する。 彼女は、優しく、甘く微笑むだけだったけれど。 「良いのよ。殺したいのならそれでも」 挨拶のように、至極普通に は言った。微笑んだままで。ここで怯えるのは禁物だったが、彼女はちっとも怖くなかったので、演技する必要もない。 だから、那咤の頬に手を当てたままで、手首を掴まれたままで、目を見て、微笑める。 「………ならば聞いて欲しいの。貴男、お母様の事、好き?」 那咤が沈黙し、殺意が消えたのを感じ取り、訊いた。 「ははうえ?」 どうして の口から母の名が出るのだろう? 本当は焦がれてやまない人が、今、どのように関係があるのだろうか? 「 ? どういう事だ? 母上って…」 「好き?」 戸惑い、訝しがる那咤に、尚も は訪ねた。 好き? に感じる気持ちとは違う好きの対象。 母親。 生まれてからただの一度も口を利いていない。 姿は、たった一度だけ、言い付けを破って見た事があった。遠くから、母親だと謂う人を視た。本来の母親がどういうものかを知ったら、抱きしめて欲しくなったけれど、那咤の母親には到底無理な話だった。 恐る恐る近付き見たあの顔。 死んでいるかのような顔は、那咤の脳裏に焼き付いている。 あの、青白い顔に窪んだまなこ。皺枯れた唇。痩せ細った、いや、異様な痩せ方をした、人体。初めて視た時の衝撃は凄まじかった。 そんな母親でも。 憧れを忘れた事はない。 いつか、目を覚まして那咤を抱きしめてくれるのではないかと夢見ていた。 長男の李金咤から、母の思い出話を聞いていた影響が大きいというのがあるだろう。父上には勿体ない人だ、と笑っていた。その母が、何だって? 「好きだと、思う。いや、…判らない」 脳裏に父親の呪詛が響いていた。那咤よ、母の事は忘れろ、と。忘れられる訳がない。 「うん、じゃあ、会いたい?」 「……訳判らないぞ、 。会いたいって、今母上がどんな状態なのか……」 那咤は金色の瞳を凝視する。 は、既に母の事を知っているんだ……。咄嗟にそう思った。 「母上が目覚めたのか?!」 思わず の右手首をきつく掴んでしまう。黒光りの拘束具からは、那咤の込めた力強さは伝わらない。けれど、手の甲に、那咤の親指の爪が軽く食い込む。 「余り長い間は意識を保っていられないけど。加えて、今から行って話せるかは微妙ね。今は、恵岸さんが付いてくれているわ」 那咤には、 は嘘を言っていないと、何故か信じられた。そんな嘘を吐く意味もないだろう。では、本当に……。 「凱旋報告なんて止めて、一緒に行きましょうよ」 空いている右手を、 の左手が優しく包む。 その提案に逆らうなんて、那咤には出来なかった。 那咤太子、天界帰還前日の会話・弐。 「そんな使い方……お前、良く思い付いたな。私は、ある意味嘘を吐いたのに、良くもまあ」 恵岸は、感嘆半分、驚き半分で言った。 一人の力だろうかと疑問に思いつつ、自分が言った台詞を思い出す。 達姉弟を初めて家に招いた時、父親には才能が無かったと言った。話の流れでは、李塔天は宝貝を貰えなかったと受け取るのが普通だろう。 「…一杯考えましたから。そして、きちんと調べました」 淡々と言う少女には、確かに異端という言葉が似合うと感じる。黄金色の瞳は、何を何処まで見通しているのか。 異端の生まれとはいえ、小さな子供に流されかけている自分は、情けなくはある。 が、何故か期待もしている。 何年掛けて考えても解けなかった答えを、たった数日で解いて提示してくれた。未だ可能性の域を出ていないが、恵岸には の解で正解だと信じられる。 確かに、出来ない事はないから。 ならば、母の眠りと狂気を、そして那咤の忌々しい呪縛をも解き放つだろう。 期待を、しても良いだろうか。 「お前なら、俺達家族を…救えるかも知れないな」 「救う?」 「 、お前ならー……」 金蝉童子は天帝の城へと走っていた。 こんな時は、体力の無い自分が恨めしい。金蝉を激怒させた悟空と の逃げっぷりは大したもので、金蝉がまともに追い付けた試しがなく、いつもいつも、後を追い掛けていた。 いつも、いつも。 いつも金蝉の回りに纏わり付いているのに、逃げ出すとなると一瞬だ。 悟空の瞬発力は抜群で、こいつは逃げる気だと先読みが出来た時にやっと捕まえられる。学習して、目線を下に下げるより先に横に手を出して捕まえようとしたが、それでもまだ の方が素早かった。 するりと、側を離れて行く。 (俺がまともに捕まえられるのは、いつも、あいつらに捕まる気があるからだ) ふざけて、弾む笑い声。満面の笑みの悟空と、口元を緩ませている と、怒り顔の自分。 日常。 壊れる。 耐えられない。 切れる息も構わずに、無情に散るだけの桜街道を駈け抜けて行く。 那咤太子、天界帰還前日の会話・参。 「………不参加だと?!」 「はい、普賢菩薩様はご気分が優れないとの事です」 「忌々しい普賢め! 今更一人後に引こうという気ではないだろうな…。釈迦如来は何も言わなかったのか?」 「さあ……。判り兼ねます。ただ気になる事があるのですが」 「言ってみろ」 「御子息方の事です」 「……三人共か? 那咤は大丈夫だ。何も知らんし、私の言う事にだけは忠実に従う。それが奴の仕組みだからな。私の言う事には、絶対に逆らえない。逆らうなど…奴は自分で存在価値を否定するも同然だ」 「…そうですか。では、金咤様と恵岸行者様に話を絞りましょう。金咤様の最近の行動は、我々を気にしてか、この東方に訪れるのをぱったり止められたようです。恵岸様は、先程異端の女児と会っていたそうです」 「異端の女児……ああ、観音の甥に引き取られたという…。そういえば、家の者が言っていたな。那咤の見舞いだと言って、頻繁に金眼の幼児達が訪れると」 「そうです。なんと、恵岸行者様は、その娘をご自宅に招き入れたそうです」 「…………。木咤に言っておけ。帰ったら話がある、とな」 「は」 内緒話は終わった。 西方浄土を含む、天界首脳達の密会が始まる。李塔天は、側近が開けた重々しい扉を、余裕の表情を作って通った。 李靖の妻である殷氏は、未だ開けない霧の中に居る気がしていた。それというのも、どうにも後頭部に痛みが走り、視界が霞む為だ。 声が聞こえるのは判る。自分の息子に似た声だった。 「………木咤?」 呟いた母の掠れ声に、涙が出る思いだ。 「はい、母上」 「今、手を……握っていてくれるのが木咤ね?」 「そうです。私の事がお判りになりますか」 「…勿論よ。ああ、でも、もっと良く顔が見たいのに。私、一体どうしたのかしら」 困惑している殷氏は、不安から息子の手を握り返そうとするが、上手く力が入らなかった。頭を持ち上げ、起き上がる事も出来ない有り様。 「お身体が本調子ではないのですよ。何分、頭からお倒れになったんですから、安静にしていないと」 「倒れた…。そうだったの?」 「ええ、今は、ゆっくり横になってお休み下さい。母上……」 「そうね、そうするわ。何だか頭痛が酷いの。……でも、李靖様は?」 「父上も兄上もお仕事中です。さあ、母上、どうか、もう」 「おやすみなさい」 「おやすみなさいませ」 殷氏の寝息を確認すると、部屋の端に居た が近付いて来た。相変わらず精気のない表情だが、金色の瞳は輝いていた。 は殷氏の寝顔を見ながら、言わなくても良い事だとと思いながら、言ってみる。 「よくもまあ、自分の妻をこんな風に出来ますよね」 恵岸は同感だと思った。父親を悪く言われても、別に怒りは湧かない。 怨霊に取り憑かれ、精気を吸い取られていた母親。 可哀想に。 主人の捩じ曲がった性質について行けず、結果、不当な仕打ちを受けた。幽閉された揚げ句、殺されかけていた。哀れにも造られた命を、無理矢理腕に抱かされた時の母の心中はいかばかりであっただろう。 ああ、そう、那咤は哀れな命なのだ。 可哀想な弟。可哀想な母親。 全ては狂わされてゆく。一人の可哀想な男に。 「恵岸さん?」 昏く沈みかけていた気持ちが、少女の声に引き上げられる。彼女の声は、声量自体は小さいが、音が明瞭な為、聞き取りにくい事はない。それが妙な錯覚をさせる。 まるで、 の声は自分にだけ届くかのように。 「恵岸さん、玲瓏塔がある場所は、やはり地下だと思うのです。那咤が帰ってくるまでに、何とか証拠を見付けたいわ」 「ああ、やってみよう。チャンスは今晩だ。父上が、西方浄土のお偉ら方と密会する。その間に、何とか開けてみる」 「お願いします。……でも、あの、西方浄土の人達と、わざわざ、密会をする必要があるのですか?」 の言葉に対し、恵岸が浮かべたのは、どこかふっ切れた笑みだった。 「そう。重要なポイントだ。密会というからにはそれなりの悪事の相談だからな」 自分が知っている事を、全て話してやろう。 その上で、 がどう行動するのか。楽しみになった。 恵岸行者は、今まで父親側に付いる振りをしていたと、彼女に告白をした。最も、それも の予想の範囲内だった。 静まり返っている城内では、靴音がとても冷たく響く。 は裸足なので、那咤一人分の足音。 ぺたぺたと謂うような足音がしても良いのに……那咤は の足元を見る。 無音。どうやら彼女は、足音を消しているらしい。 二人だけの足音、というのに、ほんの少し未練があったが、那咤は何も言わず歩いた。 李家の居住区は、嫌というほど静かであった。李家の当主である李塔天が、派手で明るい雰囲気は好まない所為だ。しかし、高価そうな悪趣味極まる銅像やら、花瓶、絵画は至る所に置かれている。 階段を上がり、一番奥の白く塗られた木の扉。母の部屋。 その前に立ち、那咤は を振り返る。隣を歩いていた彼女は、今、四、五歩離れた距離で佇んでいた。金色の瞳は何も語っていない。どうするかは、那咤次第。 那咤は決意をして、扉を開ける。 鼓動の速さは、随分落ち着いていたのに、ベッドの側で椅子に座っている兄を認めて心臓が跳ねた。 「兄上……」 恵岸は目を開け、那咤を見る。 「父上のお叱りを覚悟の上だろうな?」 鋭い視線で問われたが、怯えもせず那咤はゆっくり頷いた。 那咤は父親が嫌いである。 幼い頃より、ずっとずっと嫌悪感を抱いている。 自分を大切にしてくれる、優しくしてくれる唯一の大人と思われたが、それは那咤自身の為ではなかった。 ただひたすら、父自身の為だけに。 都合の良い道具としか見ていないくせに、急に優しい声で話し掛け、小さな那咤を縛りつけていた。 少しは期待をしていたから。 本当は優しい人なのではないか、と。 全て嘘だと判るのに、長い年月がかかった。 きっかけは、母親の悲惨な状態を知った事。 あんまりだと父に訴えた。泣きながら。けれど、全く取り合ってくれなかった。それどころか酷い叱責を受け、殴りつけられた。 あの時のショックは今でも忘れられない程だ。 だから心を閉ざした。 これ以上傷付けられない為に。 以来、本当の自分を見せないまま、父親の言う事には素直に従う振りをしている。心の中では、勢い良く舌を出しながら。 けれど、那咤は気付いていた。 素直に従う振りが出来る時と、振りの筈が従わされている時がある事に。そんな時は、全ての判断力が吹っ飛んでいる。父の声しか聞こえず、何の疑問も生まれず、動いてしまう。 人形のように扱われている自分を感じるから。 聞きたくもない父親の声は、隠している那咤の心すら侵すから。 ねっとりと絡み付いてくる視線も嫌いだ。吐き気がするから。 だから那咤は殺したいほど父親が嫌いだ。 「はい。全く構いません」 淀みない発音で那咤が断言する。恵岸を見上げる瞳には、決意の色だけ。 「……母上は、今日はまだ目覚めていらっしゃらない。眠りが、とても深いようだ」 「! では、やはり、とうとう目覚められたのですね!!」 「そうだ。……そこに居る、 のお陰でな」 「!」 那咤は驚いて振り返った。が、視線はかち合わない。彼女は、ベッドで静かに眠る殷氏に視線を向けていた。 「 ……」 はようやく那咤を見る。何も言わず、優し気な眼差しを受け止めた。那咤は訊いた。 「どうして? どうやって? 母上は、今まで一度も目覚めた事がないのに」 那咤の問いに、躊躇して は答える。言える真実は一つだったが、少しの躊躇いは捨て切れなかった。 「目覚めなかった理由は、お母様が眠らされていたから」 本当は、那咤の大切なものを壊してしまうかも知れない。不安はある。それでも が伝えられるのは、彼女が暴いた真実。 「…………眠らされていた?」 残酷でも。 「誰に?」 言わない方が良い事かも知れない。 それでも、壊した方が、壊れた方が良いと思って、動いてきたはずだった。 「え? …まさか!」 彼も気付いたようだ。 「……父上なんだな?!」 悪夢は、醒める。 「 !」 眠っている母を気遣う余裕もなく、那咤は叫んだ。 聞きながら、引き返す気は毛頭ないのに、 は逡巡する。 恵岸からは、 の顔が良く見えた。 冷静に観察している自分に気付き、彼は内心苦笑した。代わりに言ってやるつもりはないが、彼女の気持ちは予想がつく。 今更、那咤が信じてきたものを壊す事が怖くなったのだろうか。 本当に今更な話だ。それだけなら。 彼女が恐れているのは、那咤が自身の仕組みに気付いてしまう事だ。どうやったら、それを避けて説明出来るのか。 肝心なのは那咤自身についての情報だった。 は、迷いに踏ん切りをつけ、肯定の意味で頷く。 「そう。李塔天よ」 驚きに彩られた那咤の顔を見ながら、彼女は言葉を選ぶ。 「…貴男のお母様は、お父様の宝貝『玲瓏塔』で昏睡状態にされていたの」 宝貝・玲瓏塔。 那咤には馴染みのない単語だった。宝貝という武器を、仙道をはじめ、一部の神々が持っている事は知っている。那咤に与えられている斬妖剣も宝貝だ。 その玲瓏塔と云うものが、母を昏睡状態にしていた? 「母上まで弄んでいたのか!!」 那咤の鋭い激昂の声は、部屋の外まで響く。 その声は、李塔天の愛人が聞いていた。 恵岸行者の下した、少しの間は門番すら表に出さず、家の者に各自の部屋を出る事を禁じた命令が疑問であった。 彼女は、事態の危うさに気付き、李塔天の元へ走った。
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