桜華別路之禍梯第弐拾捌話「





 石畳の無骨な冷たさは、不本意にも恵岸の体温を奪っていく。
 此処は天帝の城、本館北側の踊り場。恵岸は三階へ上がる階段を必死で這い上がる。
 息も絶え絶えに芋虫のようにして進んでいたが、体力の限界を感じていた。
 最上階の 達の気を探すと、どうやら、まだ皆無事らしいと判る。那咤は誰も殺していない。
 流石の李塔天も、釈迦や文殊、観音が居る前では大っ平な事は控えているのだろう。少し安心をするが、自身の絶望的な状況を考えるとすぐに気持ちが暗くなる。
 「那咤め…。死ぬなよ。絶対叱って、文句言って、一発殴ってやる…」
 恵岸が不自由な動きしか出来ない訳は、縛妖索と謂う宝貝で縛られているからだった。那咤が懐から取り出したこの宝貝にまんまとグルグル巻きにされ、置いていかれたのが少し前。
 助けを呼んでも誰も来ないので、恵岸は仕方なくずるずると這っていた。
 人気がなくなる訳だ、と思う。
 悟空の様なものの殺気は既に消失し、恵岸の知る悟空に戻ったようだった。
 だが、あれほどまでに異端児の力が強大だとは思いも因らない事実。
 普通の天界人など、裸足で逃げ出すほどの存在が、あの悟空の中に眠っている。
 恵岸は を思い浮かべた。
 あの少女もだろうか?
 普賢菩薩はその事を知っていたのだろうか。
 そうならば、東方の観音に預けたのは間違いではないのか。
 観音なら、天帝や李塔天にあっさり 達を引き渡したりはしない。それは恵岸にも判る。
 しかし、自分が預かると申し出れば、こんな事にはならなかった筈だ。
 普賢の意図は何だったのか。
 恵岸は疑問に感じつつも、あの時尋ねたりはしなかった。師匠を疑っても何にもならない。
 深く溜め息を吐き、まだ何段もある階段を睨む。顎の下が、擦り剥けているんじゃないかという程痛かった。這い上がろうと上げた顎を止めたのは、下から足音が聞こえた為だ。
 二人…。
 恵岸はすぐに安堵の表情を作る。
 何とか身体を起こすと、現れたのは金咤。
 「木咤! 何て情けない格好をしているんだお前は!?」
 「兄上…。何故東方に?」
 「普賢菩薩様にくっついて来たのさ。お陰で誰にもばれずに来れたかと思ったんだがなあ―…」
 金咤が後ろを振り返ると、面白くなさそうな顔をした敖潤が居た。
 「敖潤…」
 旧知の友の名を呼ぶが、敖潤は口を利かない。
 彼は、竜王の息子にして、天界東方軍に所属、捲簾大将と天蓬元帥の上官である。赤い瞳を不機嫌そうに歪め、恵岸を全く見なかった。
 白銀の顔には、大した表情は浮かんでいない。
 恵岸は軽く嘆息した。
 「兄上、頼みがある。普賢師匠にお願いをして、何とかこの縛妖索から抜け出させて欲しい。今、何処に居られる?」
 「普賢様はこの近くに身を潜めていらっしゃる。…判った。呼んでこよう」
 金咤は振り返り、敖潤に言う。
 「弟を頼んだ」
 それだけ言い残し、足早に階段を下りて行った。
 「敖潤、お前はどうして此処へ?」
 余り期待をしないでした問い掛けは、きちんと答が返って来た。
 「…得体の知れない殺気が発生したのでな。あれは何だ?」
 「悟空と謂う異端児を知っているか?」
 「ああ、あの姉弟か。聞き及んではいる。会った事はないが」
 「恐らく、そいつだ。どうブチ切れたかは知らんが、俺達では勝ち目がないほどの妖力だった」
 「……認める。只事ではなかったからな。あれは、妖怪とか謂うレベルでもないだろう。最早神仙並の力だった」
 軍人だから解る。あの恐ろしさが。
 背筋が凍り、脳は焼かれたような衝撃。
 戦慄すべき対象が、この建物の中に居る。
 敖潤は那咤太子捜索を手伝っている最中に金咤を見つけてしまった。見つけてしまったからには、問い正さねばならない。
 天界上層部から睨まれている筈の男が、弟が失踪しているこの時に、何故天帝の城の敷地内に居るのかを。
 慌てた様子の金咤の後を無理矢理付いて来た結果がこれだった。
 妙な事に首を突っ込んでしまったと後悔をしても、もう遅そうだ。
 「俺は平気だ。頼むから、上へ行って那咤を止めてくれ!」
 「? 那咤太子を?」
 「そうだ。父上の…李塔天の命令で、那咤は 達を殺しかねん」
 今まで目を合わさなかった敖潤が、初めて恵岸を見た。
 「誰を殺すだと?」
 「異端児達の名前だ。姉が 、弟が悟空と謂う。黒髪と茶髪の子供だ」
 「……何故、天帝の御前に異端児達と那咤太子が居る? 天帝にお会いする事もままならんだろう」
 恵岸は必死に敖潤を見上げる。久し振りに見る旧友は、相変わらずの無表情だった。
 「話すと長くなる。ともかく、ええと、天帝の御前で殺生をさせる訳にはいかんだろう。しかし、父上なら、邪魔な 達を殺そうとする。断言出来る」
 「……話が全く見えんが、天帝の御身を守るのは私の仕事のうち…。言われなくても行くさ」
 「敖潤、 と悟空の方は問題ない。誰が敵だか、違えるなよ」
 不快の気持ちを表して、敖潤は恵岸を睨む。
 「誰に言っている。……天帝に牙を向ける者が敵だ」
 「! この堅物!!」
 敖潤はもう恵岸を見ていない。階段に片足を載せたところで、はたと気付た。
 「今上には誰が居る? お前は気が読めるだろう?」
 恵岸が便利な能力を持っていることを思い出す。人数と名前くらいは把握しておきたかった。
 が、恵岸が息を詰まらせたのが判る。
 仕方なく振り向くと、恵岸は擦り傷の目立つ顔を複雑に歪ませていた。
 「? 誰が居るんだ? 勿論、天帝はいらっしゃるんだな? 御存命だな? あと李塔天と那咤太子、異端児達。それだけか?」
 「…………。いや、観世音菩薩様や文殊菩薩様を含め、あと八人居る」
 恵岸が再び気を探ると…。
 いつの間にか、 の気が消えていた。
 敖潤は、恵岸の表情が異常なほど引き攣ったのを不審に思う。
 「どうした?」
 「………一人… が居なくなっている」
 「気絶の可能性は?」
 俯いた恵岸の反応はない。
 答えは待たずに、敖潤は全力で階段を駆け上がって行った。




 仄白い光の中。
 普賢菩薩は安堵の溜め息を吐いた。
 「良かった。間に合って」
 天帝の城の中庭で、様子を窺っていた甲斐があったというものだ。
 普賢の潜んでいる大木の中に、いきなり人が落ちてきた時は驚いたが。
 彼は何とか少女を抱き留め、下に落とす事は免れた。
 「どうして? 貴男の気は感じられませんでした」
 驚きの余り、自分の能力を話してしまった事に気付くがもう遅い。 は自分を叱る。
 「ああ。僕は隠れるのが得意なんだよ。だから君でも気付かなかった。それだけのことさ」
 にこりと微笑んで言った普賢は、 を木の枝に座らせる。
 「上で何があったの? 急に壁に穴が開いたから、下まで来てみたんだけど」
 「悟空が、弟が壊したのです」
 「何で落ちて来たの?」
  は俯いてしまい、答えない。
 普賢は上を見る。木の枝から少しだけ見える最上階の壁。今は、何人かが叫んでいる。誰かを必死で呼んでいる。小さく人の顔が覗いていた。
 「君の名前だよね?  って」
 「はい」
 「良いの? 放っておいても」
 「…駄目です。戻らなくちゃ。普賢菩薩、お願いがあります。那咤を助けて下さい!」
  は、普賢の腕を必死の思いで掴んだ。
 今にも泣き出しそうな表情に、普賢は驚く。
 これがあの、無表情を貫いて神々に反発をした少女なのか?
 初めて見た彼女は、異端の呼び名に相応しく、この世に生きている生命体には見えなかった。もう一人の少年とは正反対の印象。
 今目の前にある金の瞳は、人間のような。
 生き物は不変ではない。移ろい変わりゆくもの。
 この少女も然り。
 「ほんとに助けが欲しいのは君なんじゃない? すっごくいっぱいいっぱいになってるように見えるけど?」
 「私は良いの。那咤が、那咤と悟空が無事ならば」
 「……そう。じゃ、掴まってて?」
 「え?」
 不意に、微笑んだ普賢菩薩は を抱き寄せた。
 「上に行けば良いんだね?」
 「え、そうですけど…」
 「うん、任せて?」
 しっかり抱えられてしまった は、何が何だか理解不能である。まさか、此処からあの穴までの距離を、飛ぼうとでもいうのか?
 「普賢菩薩!」
 「喋っちゃダメ。舌噛むよ?」
  は見ずに、一言。
 普賢が軽やかに跳躍した。
 「!?」
  は驚きの余り、声も出ない。僅かに重力を感じながら―…普賢の顔を見上げていた。それしか出来なかった。
 「おいで? 白象」
 涼やかな普賢の声に反応して、彼の着物の袖口から、小さな白い象が現れた。
  は一度見た事があるが、大きさが違い過ぎる。ぴょこっと飛び出て の足元近くに来たものは、たった二、三センチ程の大きさだった。
 しかし、象は一瞬にして巨大化する。
  は白象が飛ぶのかと思ったが、何と普賢は白象を踏み台にした。
 白象の背中にしっかり足を着けて、更に勢いをつけて跳ぶ。
  は自分の置かれている状況が信じられなかった。
 私は何階から落ちた?
 木から見上げた最上階は、目測何メートルだった?
 答えを思い浮かべる間に、普賢と は最上階に辿り着く。
 同時に、白象が地面に着地した大きな音が響いた。
 普賢は を降ろしつつ、宝貝を仕舞う。
 「ほら着いた」
 急に姿を現した普賢菩薩と に、穴の周りに集まっていた一同は驚愕する。
 「 !」
 「ふっ、普賢菩薩?!」
 金蝉と二郎神の驚きの叫びは、悟空の悲鳴に掻き消された。
 普賢の腕から開放された は、安堵の息をつく暇もなく、悟空の声に反応する。
 悟空と那咤が視界に入った時には、那咤の身体から鮮血が噴き出していた。
 悟空には何が起こったか判らなかった。
 脳が、心臓が、身体が、目が、感覚全てが目の前で起こった出来事を認識しようとしない。
 それは も同じだった。
 目に映る全ては、意味を成さない。けれど、遅れて二人を襲った凄惨な結末は何よりも理解しなければならない。那咤は自害したのだ。
 那咤の温かい血液が悟空を紅く染めていく。
 悟空は膝を付く那咤を支えて、必死に呼び掛ける。
 「那咤! 那咤! 那咤っ!!」
 「悟空! 動かしちゃ駄目ぇ!!」
 我に返った が、早々と二人に駆け寄り、悟空を止める。
 「動かさずに、そっと床へ寝かせて! まだ生きているのよ。傷口を塞がないと」
  は両の掌を那咤の肩口にかざした。
 そうして、気を使った治癒術を施す。とにかく血を止めなくては、とやった事だが、いかんせん のこの力はまだ未完成だった。
 妖力制御装置を付けたままでは。
 完全に力を開放した状態で処置をすれば、傷口を塞ぐくらいは出来る。
 だが、極端に妖力が削られている今では、大したスピードも威力もないに等しい。
 天界へ来て、自分で小さな傷を作っては試してきたが、余り大きな成果は得られなかった。
 それでもありったけの気を注いでいく。必死に傷口を睨みながら。
 傷口は深かったが、何とか効果が現れてきたと思える程になった。神経が研ぎ澄まされていく感覚。
 そして、力の加速。
 悟空の泣き声が大きくなったのを気にしつつ、 は近付いてくる陰の主を見上げた。そこには、信じられない程哀れな男の顔があった。
 「李塔天?」
 「退け」
 「でも…」
 「退け、
 李塔天は、無理矢理 を突き飛ばす。
 「ッ!」
 悟空は を抱き留め、李塔天に吠える。
 「何すんだよ?!」
 二人が李塔天を見上げた時には、那咤は彼に抱えられていた。
 その表情といったら。
 信じられない思いで、 と悟空は顔を見合わせる。
 ただ、ひたすら悲しんでいた。両目を潤ませ、僅かに震えさえしている。
 様子を見守るしかなかった周りの者も、俄には信じられなかった。あの、李塔天が、息子の為に泣くなどとは…!
 否、違う。
  を含めた数人は、その裏に、自分の物、例えるならお気に入りの玩具を壊されて泣く、小さな子供の姿を見て取った。自分の子供の為ではない。ただ、自分自身の為だけに、悲しんでいた。
 「…覚えておけよ、愚かな異端児よ。私を敵に回した事、那咤を傷付けた事、後悔させてやる」
 殺意を迸らせ、李塔天が悟空を睨め付ける。自分が傷つけた訳ではないが、悟空は言い返す気力もなく、目を背けた。
 「 、一緒に来い。お前に出来る事がある。……やってくれるな?」
 それは間違いなく、 の身体を那咤に捧げよ、という事。
 「ええ―…」
 私の身体で、那咤が助かるのなら―…。
 そうする事も、厭わない。
 けれど。
  は諦めていない。那咤の事も、自分の事も。何とか隙を窺おうと、気を沈ませ始めた。
 (まだ助ける方法はあるのよ。 、落ち着いて!)
 観音と目の合った は、意識して、ゆっくりと瞬きを繰り返して見せた。観音は の意図を掴めないまでも、口を開く。
 「おい、李塔天。お前の血を貸せ。俺が輸血してやるよ。丁度良い事に、再生の達人も居る事だし、俺達菩薩に任せな」
 観音の言葉を聞いて、普賢が微笑する。二人揃って、李塔天に歩み寄る―…、が。
 「結構です。お気持ちだけ有り難く頂いておきます。 、行くぞ」
 「でも、此処はお二人に任せた方が良いのでは? 御自宅に戻られるつもりなら、危険です。まだ血は完全に止まっていないのですよ」
 出血は止めたつもりだった。だが、那咤の腕を伝って滴る血は真新しいものだ。すぐに出血し始めたことに疑問を持つ。
 まさか、那咤の身体は、もう回復が効かないほどガタがきているのか?
 ただ傷が深過ぎるだけとも思うが、 の脳裏には、回復力のピークを越えた為に傷口が塞がらなくなった可能性が思い浮かぶ。
 「黙れ 。付いて来るのか? 来ないのか?」
  は一旦諦めた。肩を僅かに竦め、「行きましょう」とだけ答えて、立ち上がった。
 「 ?」
 何とも気の抜けた声で悟空が呼ぶが、 は目もくれずに、李塔天と歩き出す。
 誰もが黙って見送る中、普賢が助け船を出す。
 「本当に良いの? 那咤、死んでしまうんじゃない? 貴男に助けられるとは思えないけど」
 「お気遣いは無用です」
 それだけ言うと、李塔天は裏口の扉から出て行った。最後に、 は悟空をちらりと見て―…、無言で李塔天の後に続いた。












**2006/10/31up