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桜華別路之禍梯第弐拾玖話「





 「 、たんま!!」
 悟空の大音声が響き渡る。しかし、 は手を止めなかった。
 「 っ!!」
 諦めず姉の名を呼んだ。
 李金咤は突然の事に驚き、飛び込んで来た金眼の少年と少女を見比べる。
 異端児が揃った。
 小心者、と父によく言われたのを思い出す。自分のような小心者でなくとも、驚く事だろう。
 この現状。金咤は今更のように居心地の悪さを覚える。彼は無言のまま、異端姉弟を見守った。
 悟空は息苦しさの余り、肩が大きく上下している。それでも懸命に と那咤に走り寄り、叫ぶ。
 「ソレ取っちゃ駄目だろ?!  ー!!!」
 悟空の叫びは虚しく。
  の手から、禁錮が落ちた。小さな音をたてて水に吸い込まれる。
 悟空が側に寄り、波紋の残る辺りに潜った。禁錮は容易く見つかるが、自分のすぐ隣で膨れ上がった気に驚き、悟空は禁錮を取り落としてしまう。慌てて拾い、水上に浮き出る。
 悟空の胸元まである水には、細波が出来ていた。 を中心として生まれる気が伝播しているみたいだった。
 悟空の目にも、金咤の目にも は何も変わった様子はなかった。
 金咤は注意深く観察したが、耳が長くなっている訳でもなく、妖怪特有の文様すら浮かんでいない。
 勿論、文様は身体の何処かに現れるものなので、目に見える位置にはないだけかも知れないが。
 ただ二人に判る事があった。
  を取り巻く清冽な気配。
 とてもただの、年端もいかない子供に発せられるものではないと言える。
 悟空は、目の前に居るのは本当に かと思った。
 金咤は、目の前に居るのは本当に妖怪かと思った。
 二人は違う、と感じた。
 俯いたままの が、那咤に触れる。
 触れるだけで の思うが侭に事象が具現化し、行使される。
 那咤の身体が一時分解され、蓮の精気と交じり合った。精気は衰えを見せずに、那咤の中に注ぎ込まれる。
 破壊と創造。
 合成は再構築。
 不純物の混入で完成。
 あっという間に那咤は無傷になった。
 そう、まるで身体だけ、箱から出したばかりの、新品の人形のように。
 蓮の花は枯れていた。
 那咤の身体と命の一部なって。
 悟空は に手を伸ばしかけ、触れる寸前で止めてしまう。声を振り絞って、名を呼んだ。
 「 ?」
 返事を待つ。ひたすら。沈黙。
 「 ってば…」
 「どうなってしまったのかしらね、私達」
 「え?」
 意味が判らず、悟空は聞き返す。
 「私、こんな事出来たのね。知らなかったなあ。出来るだろうな、とは思っていたけれど。というか、出来なかったら困るんだけど」
 「知らなかった?  、大丈夫?」
 「何とか。好き勝手暴れたいけど、うん、大丈夫。ああでも、制御装置ないとヤバイかも。うん」
  が悟空に向かい合うと、悟空は慌てて金の制御装置を手渡した。 は自分の額に嵌めようとしたが―…。
 「?」
 「え? ま、まさか、戻らないの?」
 声に不安を織り交ぜて、悟空が尋ねる。 は沈黙で返す。
 「嘘」
  はぽつりと呟き、信じられない思いで金咤を見た。
 「あの、金咤さん、これ嵌めて貰えますか?」
 恐る恐る聞いてみたが、金咤からの反応は返ってこなかった。金咤は表情を驚きに固めたまま、那咤を見つめている。
 無理もない反応だと思うが、 は更に呼び掛けた。
 はっと我に返った金咤は、今にもひっくり返りそうな程大声を出して驚く。
 「何で妖力制御装置を外したりなんかしたんだーッ?!」
 「緊急事態でしたから。付けたままでは大した妖力出ませんし」
 「だ、だからって……。お前、身体に異変とか起きていないだろうな?」
 「特に何も。ちょっと抑え難い力を軽めに開放してみたくなっています」
 さらりと言った に、金咤は噛みつかんばかりに怒る。
 「絶対止めなさい!!」
  は禁錮にうっすらと歪んで映る自分をじっと見ながら、観音を待とうと決めた。観音なら大丈夫だろう。それまで自分の理性が保てるか心配ではあったが、せっかく治した那咤や、悟空・金咤を傷付けたくはなかった。
 我慢する。
 考えていた以上の力が自分に有った事で、 は諦めなくて良かったと思う。余り良い事態ではないと認めつつ。
 これからの行動について思考を巡らせ始めると、禁錮から焦点が合わなくなってきた。
 悟空の呼び掛けには、何とか返事を返す。
 「って、 聞いてる?」
 「………うん。困ったな。考えるのにも一苦労だわ。ちょっと頑張ってみるね」
 「がんばる???」
 会話不成立となった事態に、悟空はきょとんとしながらおうむ返しをする。金咤は那咤を抱きかかえながら池を出るところだった。だが、異端姉弟の妙な会話に思わず振り向いて注目する。
  が自分の額に禁錮を押し当て、目を瞑り、祈るような表情を見せた。
 金咤は思わず唾を飲み込む。この少女と出会ってからというもの、緊張しっぱなしの自分に嫌でも気付く。
  はイメージ映像を繰り返し脳に送った。
 覚えている形、覚えている感触、覚えている煩わしさ。自分が覚えている、全て。
 それらはすぐに具現化される。
 音のない時間と、淡い光だけが辺りを包んだ。
 一瞬の光の後、 の額にはいつも通りの禁錮が現れる。
 「ぅわああ…。 すげえ!」
 悟空が感嘆の声を上げ、 の正面に回る。まじまじと禁錮を見るが、悟空の覚えていたものと相違ない。
 金咤は、今度こそ開いた口が塞がらない状態となった。
 那咤の傷を治した事といい、力ある神のみが作る事の出来る妖力制御装置を扱えた事といい、俄には信じ難い事を目の当たりにし、混乱しかけていた。
 「 …お前は一体、何なのだ? 本当に、只の異端児か? いや、異端児などという言葉では片付けられない!」
 「と言われましても。私今頑張っただけですし」
 「いや、そんな頑張っただけって…」
 「頑張ったら出来ました」
 「ありえん…」
 げんなりとした表情の金咤とは対照的に、悟空は に尊敬の眼差しを送る。
 「 スッゲ! 俺にも教えて! どう頑張るの?」
 「とにかく頑張る。気合い。心意気」
 面倒臭そうに、眠たそうに、普段の彼女に似付かわしくない言葉をぽつぽつ紡いだ。金眼は重い瞼の所為で半分ほど隠れてしまっている。
 「あれ、 眠い?」
 「うん。眠い。あ…もう駄目」
  は力の使い過ぎで立っていられなくなった。我慢が効かず、瞼を閉じてしまう。
 「 っ!」
 悟空が慌てて を抱き締めたお陰で、彼女は池に倒れ込まずに済んだ。
 安らかな寝息をたてる少女を見て、金咤が呆然と呟く。
 「これからどうするんだ?」
 悟空は金咤、那咤の順に目を遣り、それで何かが思い浮かぶ訳でもなく―… を抱えて池から出る事しか出来なかった。
 床に寝かせられた と那咤。眉を顰めて二人を見ているのは、悟空。
 更に遠くから子供達を見てるのが、金咤だった。 が寝てしまってから五分ほどしか経っていないのに、金咤は幾日も過ごしている気がした。
 途方に暮れている、というのが正直な感想だ。普賢師匠の側を離れ、遠く離れている。宝貝で父を拘束して木陰に転がしてきた。
 目の前で異端の少女が見てはいけない、してはいけない行為をした事を、これから黙秘し続けなければならないのかと思うと心が重い。
 あれは何だった?
 再生治療というには、少々違う気がする。
 ただ、漠然と感じる。
  が那咤にした事は、彼女の宣言通り、禁忌ではないか、と。冗談にしては性質が悪い、と思いたかったが、現実を受け入れるしかなさそうだ。
 この世に禁忌とされる行為は幾つがある。その殆どが、神への冒涜。
 先程目の当たりにしたものは、金咤の理解を超えるものだった。
 ふと思い付く。
 どうして異端児二人に、木咤…恵岸行者のみならず、普賢菩薩、あまつさえ釈迦如来までもが捕縛に乗り出したかを。
 このとてつもない力の為なのだろうか。
 「!  ?!」
 「もう大丈夫よ。心配掛けてごめん」
 弾かれるように目を覚ました は、悟空に微笑み立ち上がる。ふらり、とよろけはしたが座り込む事はなかった。
 「大丈夫って…。ホントに? 何か顔色悪くないか?」
 悟空は の身体を気遣い、彼女の金の瞳を覗き込む。表情も、声音も冴えない。
 「大丈夫。私、もう行くわ」
 「何処に? お、俺も一緒! 一緒に行く!!」
 がっちりと を拘束した悟空は、尚も腕に力を込める。置いて行くつもりなら、放さない、という確かな意志だった。
 「―…解った。じゃあ、みんなで行こう」
 掠れたその声の中に、悟空は引っ掛かるものを感じた。
 「行くって?」
 「花果山」
 更に精気のない声で、 が呟いた。
 嫌な夢を見た事は、悟空には言わなかった。
 大きくなった悟空と、金蝉童子、捲簾大将、天蓬元帥に似た魂の人達が四人で楽しそうにしていた事。
 旅をしているようだった。
 それぞれが思うまま好き勝手に生きていた。
  の姿はなかった。
 まるでそれが当たり前の光景のように。
 彼らに手を伸ばす事はしなかった。
 届かない、と良く判っていたから。だから見ているだけ。
 これほど辛いと思った事は、なかった。
  は首から下げている銀のドッグタグを触る。彼女は無意識だった。
 悟空がそれに気付き、 の手元に目線を移す。やっと は自分が銀のプレートを弄んでいる事に気付けた。今までどれだけ思考に没頭しても、プレートを触った記憶はなかったが、無意識にやってしまっていた可能性は否定出来ない。
 どうして急に気になったのだろうか、と考える。
 その合間に悟空の声が聞こえた。
 「なあ、 。金蝉達が来るぞ」
 「うん」
 「…大丈夫?」
 返事の声の調子から、 が他事を考えながら話を聞いているのが判る。よくある事だった。
 (そうだ、あの金蝉に似ていたひと。あのひとがとても気になる。このドッグタグと何故か重なる。どうして? 私は、あのひとに会った事がある? …あるのね?)
 自問自答をしても答えは自分から返る事がない。でも、 は確信めいた気持ちで思う。
 私はあのひとを知っている!
 このドッグタグに書かれた文字は、天蓬曰く、この時代よりも文字文化が発達し、とても文字の形が整っているそうだ。
  は、夢の中の大きな悟空を思い出す。何年後の悟空だろうか?
 まだあどけない幼さが充分に残っている顔つき。優しく、力強い眼差し。精悍に伸びた手足。彼にしか出来ない、目一杯のあの笑顔。
 隣には、 は居なかった。
 不意に彼女のセンサが多数の気を捉える。
  の意識の大半が急速に浮上し、金蝉達がやって来るのに備え始めた。そんな事を考えている場合ではなくなってきたのだ。
 夢の内容で悲しむより、しなければならない事がある。
 目下の問題は、金蝉達よりも後ろにある、四十人近い気の塊だった。恐らく、李塔天の私兵であろう。感知出来る範囲を広めると、まだ殺気のある気配が読み取れる。
 観音の城に集結しつつある天界兵は、最終的には倍近い数になるのでは、と計算した。恨めしい異端児二人相手なら、李塔天は権力を惜しまず使うだろう。逃亡が困難になりつつある。 は苦々しく認めた。
 そして地上に繋がる出口の方向を思い出す。裏口からでは遠回り、金蝉達を待っていたら背後は塞がれる。
 正面突破を決めるしかないようだ。
 少し離れている金咤に近寄り、 はぺこりと頭を下げた。
 「金咤さん、お世話になりました。私達はもう行きます」
 金咤が無言でいる間に、 は言葉を続ける。
 「那咤は連れて行きます。どうか、止めないで下さい」
 その言葉で、悟空が那咤を背負った。
 金咤が細く長く息を吐く。いつの間にか落ち着いていたようだ。
 「お前という奴は、会って早々無理ばかりを言うなぁ」
 困ったように眉をハの字に曲げて、彼は苦笑する。
 「私は手伝えない。だが、お前達の邪魔もしない。……行け」
 「ありがとうございました」
 「じゃあね、那咤のにーちゃん」
 出て行く間際、悟空が云った一言に、金咤が鋭く反応した。慌てて三人を見る。
 「弟をっ、頼んだ!」
 「はい」
 「うん」
 金咤の必死の望みに、 と悟空はそれぞれの決意を返す。そして振り返る事なく、進んで行った。
 知らず止めていた息を勢い良く吐き出す。金咤は顔を両手で覆い、祈っていた。釈迦や天帝、普賢菩薩への祝詞は毎日のように捧げてきたが、こんなに必死に祈った事はないと思った。
 彼は、今自分が祈るのを止めたら、大切な弟が二度と笑顔を見せないような気がして血が出るほど唇を噛みしめる。
 何一つしてやれなかった自分の無力さには呆れ果て、今また、助けてやる事は出来ない。人任せに、弟の幸せを祈る。
 誰に祈っているのか?
 金咤にははっきりとその人の姿が思い浮かべられる。神々しいまでの、金の双眸を持つ、あの少女の姿を―……。





  は計算とシュミレーションを繰り返していた。自分の考えに自信が持てない。何より、嫌な予感が消えない。
 垣間見た夢の内容が、やはり気になった。
 魂は転生をする。輪廻転生の魂は、器が違っても同じだろうか? 器が違えば、魂も、もう別もの?
 自分だけが生き残ってしまうのではないか、という危惧が の頭をもたげる。いや、那咤もだ。逆に と那咤だけが死んでしまうと考えたが、説明がつかない事が幾つかある。
 (では、どうして、どうして、私はあれを夢だと一笑してしまえないのだろう!?)
 予感がする。
 予感がする。
 それは一歩歩みを進める毎に。確実に。
 不安はいとも容易く悟空に伝播した。彼は立ち止まり、 も倣って歩みを止めた。
 「 。俺、頑張るから。みんなで花果山へ帰ろう。俺が を護るから、そんなカオすんな」
 返す言葉なく、 は横を見る。彼女と同じ金の眼に、 が映っていた。
 優しく微笑む少年は、 の弟。
 (私の、大切な悟空…)
 「大丈夫。 の幸せは、俺が手伝うよ。二人で叶えよう。俺達二人なら、何だって出来る。今までみたいに。何処へだって、行ける」
  は声を出す事なく、一筋の涙を流した。悟空はそれを見ても驚かず、黙って を見つめる。その眼差しは、愛おしい者を見守る光を湛えていた。
 「生き残ってみせる。全て、私達の願い通りに」
 「あんな奴等に負けっこねえ。約束だ。絶対、みんなで一緒に暮らそう!」
 「ええ。絶対に」
 全身全霊全てを賭けて、絶対に。
 互いを映していた瞳がひとつ瞬きをする。金蝉達が近付いて来ていた。二人は言葉を交わさず、静かな廊下に響き始めた金蝉のヒールの音を聞く。勿論、他にも足音は幾つかあった。
 二人はゆっくりと歩き、金蝉との再会を待つ。
 何度も別れを決意したけれど、結局 は金蝉も失いたくはなかった。
 幾つも幾つも大切なものばかり抱えると、どんどんおおごとになっていく。いつか手放さなければならない時、いつか無くなってしまう時、辛さが増すだけだというのに。
 それがどれだけ我が儘な事でも。
 今、此処で諦めてしまう事の息苦しさに比べたら。
 膝を折るくらいが何だろう。
 地に這いつくばるくらいが何だろう。
 歩いていた足が、突如スピードを上げる。二人は合わせたように、逸る気持ちそのままに、求める金の光へ急いだ。
 そして、光との邂逅。
 「 ! 悟空!」
 先に呼び掛けたのは金蝉だった。
 『金蝉っ!!』
  と悟空が同時に叫んだ。それを聞き、金蝉は急に足を止め、両手を広げた。 と悟空が少しスピードを落として、金蝉の腕に飛び込む。
 感動の再会と抱擁―…、と金蝉以外の全員が思った。二郎神などは気が早い事にもう涙ぐみ始めていたというのに…。
 金蝉は、自分に抱き付いてきた二人を、広げた掌をぐうに固めて、殴った。
 「こおんの馬鹿猿コンビーッ!!!」
 「イテーッ?!」
 「こ、こんぜ…」
 「やかましいわ! 散々心配掛けやがって! てめえらの為に今日この俺がどんだけ走り回ったと思ってやがる! もう振り回されんのはゴメンだ。おら、とっととウチ帰んぞ! キッツイ説教はそれからだ」
  も悟空も、金蝉の台詞を聞き目を白黒させる。が、 は何とか立ち直り、側頭部を撫でながら言う。見えないはずの星が見えた気がした。
 「金蝉聞いて」
 「聞く耳ねーよ」
 不機嫌そうに片目を細めて金蝉が返せば、悟空も口を開く。
 「金蝉!」
 『ごめんなさい!』
 二人は口を揃えて謝った。とても真剣な顔つきに、金蝉は漸く溜め息を零す。そして無言で膝を付き、目の前の大切な生命を抱き締めた。腕に力を込めたが、痛くならないように、けれどこちらの安堵と体温を伝えるように、優しく。
 「世話ばっか掛けてんじゃねえよ…」
 『うん』
 悟空は半泣き状態になる。 は金蝉の肩口に顔を埋めてしまった。嗚咽は聞こえないものの、小刻みに震える身体はとても気持ちに正直だ。
 金蝉が肩に温かなものを感じ始めた頃、悟空に背負われていた那咤が呻き声を上げた。 と悟空は素早く那咤を見る。
 「那咤? 那咤!」
 「…まだ気が付いた訳じゃないみたい。でも、もう大丈夫みたいね」
 那咤の顔を見ると、かなり血色が良くなっていた。あとは意識が戻るのを待つのみ。
 「那咤太子を観音のババアと普賢菩薩に見せてやらねえと―…」
 金蝉は悟空から那咤を引き受けようとして、目を見張る。まさか、と信じられない思いで那咤の胸元を見た。服は確かに大きく裂けていたし、半端ではない血が付着している。だが、傷が全く見当たらなかった。
 「どういう事だ?」
 天蓬も金蝉の疑問に気付く。捲簾と二郎神は顔を見合わせ、那咤に近付き、こちらも絶句。
 「 、那咤は、自分で回復したのですか?」
 「いいえ」
 「では、これは一体…」
 「私が治したの」
 「え?」
 「天ちゃん、私が治したのよ」
  が嘘を吐いているようには見えなかった。第一、そんな嘘を吐く必要性が思い付かず、天蓬は言葉に詰まる。では、本当だとしたら、その真実の意味の重大さは計り知れない。
 「貴女が…。一体どうやって治したと云うんですか? こんなに完璧に…。さっきは出来なかった貴女が、どうして」
 「私も力を解放して、治療に集中させただけ」
 「力を、解放?」
 驚く天蓬の横から、捲簾が身を乗り出して の額を確かめる。
 「おいおい、まさか、コレを取っちまったんじゃないだろうな?!」
 「ケン兄、痛い」
 「でも、それなら私が気付けない筈は…ないと思うのですが…」
 二郎神は悟空と とを見比べながら言った。悟空は一瞬きょとんとした瞳を二郎神に向けたが、すぐに気まずそうに に視線を逸らす。
 「てーか、今はそんな話より逃げた方がイイんじゃねえのかよ? 二郎神、あんたがさっき囲まれつつあるって云ってたけど、そろそろやばいんでない?」
 「あっ!」
 「いや、あってさあ…」
 捲簾の指摘に、天蓬が を伺う。彼女は無言で頷いた。じわじわと敵は距離を縮めつつある。今のうちならば、手薄なところを叩いて逃げおおせる確率が高い。
 「みんな、聞いて。私と悟空は、那咤と一緒に生まれ故郷に帰ります。……花果山へ帰りたいの」
 近くで天蓬が息を飲んだのが判った。金蝉は を凝視する。驚きの余り声も出ない二郎神も、やはり に注目するだけ。
 そんな中、捲簾は金蝉の腕に納まっていた那咤を引き寄せ、軽々と自分の背に背負った。立ち上がってから、確認をするように那咤を一度上下に動かす。
 「よし。…… 、俺は付いてくぜ。お前が云ってた生まれ故郷を見てみたかったしな。連れてけ」
 「ケン兄…」
 余裕の笑みとウインクに、 は思わず顔をほころばす。何だか緊張が解けたように思えた。お返しに も余裕の笑みを真似してみる。笑う事は、実は苦手だったが、上手く笑えたと思った。
 「僕もお供しますよ、 。この逃亡劇、最後まで一緒させて下さい」
 天蓬は の目線に合わせる為、膝を折って身体を縮めた。黒い瞳と金の瞳がかち合う。彼は の瞳に自分だけが映っている事に満足しつつ、やんわりと微笑んだ。
 「天ちゃん…。良いの?」
 「勿論です。僕はね、 、ずっと待ち侘びていたんですよ。こんな退屈な天界からとっとと抜け出せる日を。そんな口実が出来るのを。そう―…初めて僕の部屋に来てくれたあの日から、もう、ずっと。ドアの話をしましたね? きっと貴女がこんな事を言い出すんじゃないかって、僕、期待していました」
  は少し驚いたが、すぐに行動に移す。連れ出してあげたかった。どんな形でも。この人がそれを望むのならば。
 「応えましょう。私、天ちゃんが居てくれると嬉しい」
  が天使のように微笑んだ。少なくとも天蓬にはそう見えた。それ以外には見えなかった。彼は、 が差し出した小さな両手を、やはり両手で包んだ。自分の冷たい手が、彼女の温かい体温を感じて心地良かった。
  も天蓬の手の温度を感じながら、二郎神が口を開く前にと、彼に目を向ける。二郎神はすぐに言葉が出て来なかった。
 「二郎さん、貴男まで巻き込まれる事はありませんよ。今の天界で…原因を作る私が言うのもなんですが、観音を輔ける事が出来るのは、貴男だけですから。二郎さんが下界に行きたい、と仰っしゃるなら別ですけれど」
 考えるまでもなかったが、 の言う通りだと二郎神は思った。
 彼の中に、憧れは、多少残っている。
 もう千年以上も前になるが、二郎神は下界に降り立った事があった。仙界と人間界の戦争の為に。血みどろの毎日に身を置きながらも、敵地に赴く時など、天界とは一風変わった景色に目を奪われたものだ。天界で観た事があるような景色でも、どこか生命力が違うと感じた。
 直接観てみたくなる。が、ああ、それが叶えばどんなに良いか。
 「私は君たちが逃亡する手引きをしよう。最後まで一緒には行けないが、手伝いたい」
 二郎神はやっとの思いでそれだけを言った。可愛がっていた甥っ子を、 と悟空を一度に失う事になる観音を支えるのは自分の役目だと思う。これは義務感ではなく、彼の観音に対する忠誠だった。
 それこそ、千年くらい振りに怒り猛る観音を想像しかけて、慌てて打ち消す。脅威だった。だがそんな事はおくびにも出さず、 と悟空に微笑んだ。
 「で、あんたはどーすんのよ? え? オトーサン?」
 捲簾が軽口を叩く。金蝉は睨み返し、決まっているだろう、と心中思った。
 「俺も行くさ。もとより、こんなトコに未練はねえ」
 「決まりですね」
 天蓬が金蝉を見上げて言った。まだ の両の手を握ったままだった。金蝉は と天蓬の手に視線を移し、次いで天蓬をきつく睨んでやるが、天蓬は素知らぬ振りをした。
 そんなやり取りには全く気付かなかった悟空が、すっかりやる気になって と天蓬の手の上に自分の両手を乗っける。
 「んじゃさ、エイエイオー?」
 わくわくしながら 達を見渡す。素早く便乗した捲簾は片手を乗せつつ「良い掛け声知ってるぜ」と、悟空ににっかりと笑った。くすくす笑いながら二郎神も片手を乗せる。金蝉は、これに自分も加わるべきか迷った。手を出しあぐねていると、悟空が動いた。
 「もー! 金蝉も!」
 「っおい?!」
 悟空は自分の片手を引き抜き、金蝉の手を取り、無理矢理重ねさせた。非難の声を上げても、金蝉はもう満更ではなかった。ちっと舌打ちをして、大人しく従う。
 「そんじゃいくぜ。とーぼうぐみ(逃亡組)、ソリャ!」
 「ソリャ!」
 捲簾の掛け声に合わせ、悟空が元気一杯に続く。二郎神は遅れて言った。しかし、すぐに沈黙が降りる。
 「何だよ、やる気ねーな」
 捲簾が不機嫌そうに呟けば、天蓬が反論する。
 「だって、貴男オヤジ臭いですよ、どう考えても」
 当然のように と金蝉は加わらなかった。そして、 の時間が惜しい発言により、一行は先を急ぐ事にした。
  は観音と普賢、文殊、そして恵岸の気を探し出し、金蝉達にもうすぐ鉢合わせると伝えた。先行する悟空が、声を上げる。
 「あ、観音のバーチャんんん、じゃなかった、おねーさんと那咤のにーちゃんだ!」
 「口を慎め、悟空ッ! 観世音菩薩に向かってなんたる―…」
 内心慌てた恵岸は怒鳴って注意をするが、肝心の観音に遮られて言葉が途切れた。普賢と文殊の忍び笑いが漏れ聞こえてくるのは、この際無視しておく。観音は捲簾に背負われている那咤を一瞥し、 に尋ねる。
 「これからどうするつもりだ?」
 「花果山へ帰ります」
 「んなこと許す訳ねえだろう。とうとう余裕なくして、判断つかなくなったのか? え? 
 「余裕ないのは認めるけれど、間違った判断はしていないつもり。元々天界は性に合わないのよ。私は帰りたいのです」
 「 …」
 「問答している暇はねえぞ、ババア。李塔天の追っ手が迫っているんだ」
 堪り兼ねた金蝉が口を挟む。観音はそんな甥を睨んだ。
 「お前も行く気かよ。天界純粋培養のお前に、これから何が出来るって言うんだ。下界に降りて、そこで真っ当に暮らしていけるのか?」
 「やってやるさ」
 金蝉の一言を聞き、観音は勢い良く溜め息を吐いた。実は、天帝の広間で と対峙して以来、考えてはいたのだ。残る道は、下界へ逃がしてやる事だと。けれど、下界へ行ったからといって、追跡の手が緩む事はないだろう。
 元通りの関係と空間に戻す事は、最早不可能。
 金蝉から視線を外し、悟空、 の順に意志確認を取る。我迷わず、の瞳。言葉で確認取るまでもないな、と思った。
 「…仕方ねえな」
 「仕方なくないだろう! この大切な時期に、下界に軍を動かしている余裕はない。それでも無理矢理派遣させるのだとしたら…」
 「だからだよ、文殊」
 「何?」
 反対意見を述べる文殊に、普賢がやんわりとした口調でストップを掛ける。
 「西方で一騒動起きれば、僕たちは出て行かないで済む。東方だけで収めようにも、釈迦や天帝たちが企んでいることを第一に推し進めて行くのならば、達に構っていられなくなるんだよ? 暫くの間は、李塔天の是非とも復讐しないと精神の火は消えないと思うけどね」
 「そう。猛攻撃なんてのは、何時までも続けられるもんじゃない。この人数で逃亡し切るのは、無理があるかも知れん。だが、それに耐え得る事が出来たのなら…」
 観音の視線を受け止めながら、 が言葉を継ぐ。
 「完全に攻撃が止む事はなくとも、天界に居続けるよりは、ずっとずっと良いわ」












**「 が天使のように微笑んだ。」という表現がありますが、天ちゃんの特殊フィルタを通しての事です。月並みな表現です。でも、ああ、天ちゃんおかしい。もとい、天ちゃん可愛い。
*2006/11/27up