桜華別路之禍梯第参拾壱話「凶」 幸い、天蓬に銃弾が降り注ぐ事はなかった。彼は無事に たちの所へ辿り着く。 「 !」 と、天蓬が愛おしい人の名を呼べば、かの人は天帝に手を握られたまま視線をくれた。その瞳にはいつも天蓬を魅了する光を称えているのに、今はどうだろう。少し翳りのある眼差しになっているように見えた。 彼女は、絶望しかけている? 「天帝!」 天蓬の非難を聞くより早く、天帝が を拘束した。彼女の両腕をきつく掴み、頭の上に上げる。 は声こそ上げなかったものの、痛みに対し、僅かに顔をしかめた。 「心配しなくても良い。天帝である私に造反した事や、李塔天殺害の罪は重い。きっちりと罪は償って貰おう。……それぞれに、な」 天帝の顔に浮かんだ卑しい笑みに、天蓬はカッとなった。天帝に詰め寄ろうとしたが、金蝉の尋常でない咳き込み方に思わず止まる。 『金蝉っ!』 と悟空が同時に叫ぶ。 天蓬が振り向けば、金蝉は咳と一緒に大量の血を吐いていた。金蝉の胸元が、足元が、赤く染まる。鮮血は渇いた血糊の上から、更に死を色濃く演出した。 身体を支える事も壗ならなくなった金蝉は、地に倒れる。天蓬が駆け寄り、介抱しようとするが、どう見ても助かる見込みはないように思われた。出血の多さもだが、やはり腹の傷が致命的だった。顔面蒼白で、体温は下がっている。 悟空は芋虫のように這って行く。必死に金蝉の名を呼びながら。 も金蝉の元へ行きたかったが、天帝が離さない。 は、自由な脚で天帝を攻撃する。天帝が痛みで怯んだ隙に、 は金蝉に駆け寄った。 金蝉の呼吸は、既に浅く、速くなっている。金蝉の苦しそうな顔。 は、目元が温かくなったのに気付く。頬を伝うものが、スッと冷えて、次々に温かさと冷えを伝えて行った。 (私は、泣いている。何て邪魔なの) 泣いていては、こんなに視界が滲んでいては、金蝉を看取る事が出来ないではないか! 悟空がしゃくり上げている声が聞こえた。 もう、本当にどうにもならないのだろうか。 は金蝉の腹に手をかざし、治療を始める。 「無駄だ」 天帝の声が聞こえても、 は止めなかった。止めるどころか、フルパワーで治療を進めて行く。これが限界、の更に一歩先。 生きて。生きて。生きて。 「生きて。生きて。生きて! 金蝉っ!!!」 「金蝉、死んじゃヤダよぉ。俺達を置いて行くなよッ!」 金蝉は、応える事も出来ない。視界も霞んでいく。 手を、動かしたかった。泣いている悟空の頭を撫でてやるために。 の頬に流れる涙を、拭ってやるために。口を、動かしたかった。何泣いてやがんだ馬鹿猿ども、と言うために。 こんな時まで、自分の思うように振る舞えないというのは、なんと情けない事だろう。 もっと。もっと。 お前等と一緒に。 生きて。 生きて。 生きて行きたかった。 追っかけ回した所為で足腰の痛みに耐え兼ねた朝も、ずっとこの喧騒が続くのだろうかと頭を抱えた昼も、寝ている時だけは静かで、寝顔に奇妙な安心を覚えた夜も。 もうない。 もう、二度と、ない。 次第に自分の呼ぶ声も遠ざかっていくような感覚の中、金蝉は重たげな瞼を閉じた。 そんな金蝉の名を呼ぶ事も出来ずに、 と悟空は目を見張る。大きな金色の眼は、今確かにひとつの生命が消えるのを看取ったと思ったのだ。 気を読める と悟空にしては、余りの事に我を忘れたとしか言えないだろう。脈を取っていた天蓬の声も聞こえず、金眼の異端児は揃いも揃って頭に血を上らせた。 はついに、「 」の人格を保てなくなる。彼女の何処か冷静な部分が、悟空も同じように、血液と細胞が沸騰する感覚を味わったのだろうかと考えた。 しかし、そんな思考もすぐさま兇悪な感情に飲み込まれる。 一瞬にして。 誰の目にも、 は異端の妖かしに映った―…完全に妖怪の姿で起ち上がる。 大きく長い耳と、異様に伸びた手の爪。同じ瞳の色なのに、瞳孔はまるでネコ科の動物を思わせた。 その隣で、金鈷が壊れて同じ姿になった悟空が舌舐りをする。悟空はいとも簡単に縛妖索を引き裂き、既に自由の身だった。無残にぶつ切れた縛妖索が、悟空の足元に頼りなく散らばる。 天帝は、あの宝貝が内側から力任せに破壊された前例を知らない。我知らず、後ずさる。 二人揃って明らかに違うのは、二人を取り巻く空気。彼女たちの妖気が、近くに居る者たちを溶かしかねないような、熱い肌触り。真逆に、心も身体も凍り付けになり、砕かれるのではないかとも感じる。 一番側に居た天蓬は、素直に恐怖を認めた。思わず、金蝉の左手を取り落とす。 空も、風も、大地も、彼女たちのために歓びわなないていた。 自分の形が消し飛びそうな恐怖の裏には、神々しさを感じずにはいられない―…そんな、 。 あの金の眼に捕らわれた者は、漏れなく鋭い爪で引き裂かれるのであろう。逃げようと思っても、彼女に心臓を引き摺り出される為に、自ら近寄ってしまいそうで天蓬の鼓動は速くなった。 初めて見る彼女の姿に、恍惚感を覚える。引き寄せられる感覚。内なる戒めの声は聞こえず、天蓬は自分の生命を捧げる為に、 の前に立った。 天蓬の行動の意図が読めないまでも、不思議と胸騒ぎを覚えた捲簾は、軍服の中に手を突っ込む。慌ててホルスタから拳銃を引き抜き、威嚇射撃をした。 「目ぇ覚ませ! 馬鹿天蓬!」 狙いは、天蓬と の間。大きな狙撃音が、強風の中響き渡る。天蓬たちの頭上を大きく逸れて、弾は見えなくなった。 我に返った天蓬より先に、悟空が動く。悟空は捲簾に向かって、気弾を放った。これには堪らず、捲簾も、彼を取り巻いていた軍人達も一目散に逃げ出す。 気の塊は、着弾と同時に爆音と爆風を撒き散らした。悟空は逃げ惑う軍人に攻撃を仕掛け、狩りを始める。それが、合図。 が得たり、と微笑むと、天蓬の胸に彼女の爪が突き刺さる。 は優雅な手付きで、ついと右手を向けただけだった。細く長く伸びた爪は、 の意志ひとつで長さを変えられるようだ。爪は元の長さに戻される。彼女は惚けた顔の天蓬へ近付いた。 天蓬は、 の瞳に映る驚いた顔の自分を見つけると、やっと感じた痛烈な痛みに膝を折る。口の中で、確かに血の味がした。 (望んだ事だけれど。僕が自分で彼女に殺される事を望んだのだけれど。きっと、本当の は、僕を殺してはくれないのだろう。あの小さな手で、僕を生かしてくれる) それも確かに望んだ事なのだ。 天蓬が意識を失う前に、勇ましい獣の声が木霊した。何とか薄れかけた意識を繋ぎ止め、天蓬は頭を巡らす。 悟空が地を蹴って、空中で白い影に向かい拳を突き出すところだった。悟空に殺されそうになっていた軍人は、普賢菩薩と白象に助けられた。天蓬が別途青い閃光のようなものを視認した時、彼の横を が駆けて行く。 「文殊菩薩!」 天蓬が驚きの声を発する。速さの余り、光りの如く見えたのは、文殊菩薩の霊獣だった。文殊の相手は 。 「俺も居るぜ、天蓬元帥」 あっさり移動手段の大蓮を仕舞い込み、観世音菩薩がシニカルな笑みを浮かべた。 「観音! 貴男まで…」 「もう、見守るだけしかねえと思ったんだがな。あの小猿がまーた暴れたくってんじゃねーか? 急いでこっち向かいやぁ、 までぶち切れてやがる。流石に、これは放っておけんだろ」 彼は、天帝に向かってニヤリと笑う。 「おいおい、師匠。そんな情けない面すんなって! 仮にもこの天界の主だろう。アンタはもっとどんと構えて、後ろの方で見物してな! 邪魔だから」 「観音、貴様…」 怒りを顕にした天帝を無視し、観音は普賢に言う。 「普賢! 天蓬の傷を見てやってくれ!」 普賢が白象の向きを変えると、悟空も一緒に動く。観音は、地上で迎え撃つ体勢に入った。しかし、普賢と入れ替わりで悟空をふん縛ってやろう、という目論見は、 の無差別散弾攻撃に邪魔される。悟空を庇おう、といった意志はまるで感じられない攻撃だ。 だが、悟空は当たる心配もしていないのか、一直線に観音に向かってくる。大粒の雨のように降り注ぐ気弾に、金蝉と天蓬を庇うため、仕方なく大掛かりな防御結界を展開させる観音。 天帝は自分で結界を張っていた。逃げる隙を窺っていたが、 の攻撃の所為で逃げ場を失った。それでも天帝は焦っていない。彼は切り札を思い浮かべた。 自分には力があるのだ。第一線を退いてから、もうどのくらいになるか忘れたが、それでも、この場に居る誰よりも力を持っている筈なのだ。例え、潜在能力が未知数の異端児共相手でも、勝てる自信がある。 天帝は油断なく機会を待った。 悟空が愉快そうにして、観音たち目掛けて突進をしてくる。観音は数種類の戦闘パターンを思い描きつつ、少し重心を移動させ身構えた。 来る! と、そう思った次の瞬間、悟空は の気弾に吹き飛ばされた。 「あ?」 観音の怪訝な声は、爆風に掻き消される。一瞬見えた気弾の大きさは、どう考えても悟空を殺そうとしているかのような代物だった。普賢の到着が間に合い、二重結界を拵えたため、観音たちは無傷で済む。 観音と普賢が一旦結界を解いた時、 にやられた文殊が物凄いスピードで墜ちてきた。 「次から次へと何なんだよ一体!?」 まともに受け止めたのでは、こちらにまで大きなダメージがある、そう判断した観音はクッション代わりに大蓮を出す。タイミングを合わせて、何とか文殊を助けた。 「す、すまん」 「 は強い…。何だ、あの強さは」 「判らん。本人が云っていた通り、あの禁錮のせいなのか…」 と釈迦の会話を思い出す。初めからこんなに兇暴でなかった、という事が真実ならば、原因は只ひとつ。 文殊は を凝視し、やっと主人に辿り着いた青獅子を撫でてやる。疑惑を解明している暇はなかった。 の襲撃から起ち上がった悟空が、自分の背丈の倍はあるだろう大きさの気弾を作り出している。狙いは 。当の彼女は、涼しい顔をして空中に浮いていた。 「ま、まさか。姉弟で殺し合う気か!?」 文殊は慌てて青獅子に乗り込み、仲裁に入ろうとする。 「アホかお前は?! 一人で突っ込むんじゃねーよ!」 観音が更に慌てて止めた。そんな二人を尻目に、普賢は無言で動く。白象を駆り、宝貝を片手に双子に話し掛けた。 「二人とも止めて!」 特に悟空に向かって叫ぶ普賢。 『アホかお前はーッ?!』 余りに無謀な普賢に対し、観音と文殊がハモって突っ込む。そんなものは気にも止めず、悟空は普賢と に気弾を投げつけた。普賢は怯まずに宝貝をかざす。 普賢真人の宝貝、太極符印がノイズを発して起動した。 「三昧真火!」 太極符印を媒体として、普賢の両の掌から紅蓮の炎が迸る。相殺なるか、と文殊が思ったのは甘かった。相殺どころか、勢いの弱まらない炎は悟空を焼き殺さんばかりに火の舌を伸ばす。 不利と見たであろう悟空が、気を巡らせた自身の拳を地面に叩き付け、大きな穴を作り身を隠した。お陰で弾け飛んだ気弾と、襲い来る炎を免れる。 普賢は憂いの表情から能面のような表情になり、呟く。 「結構賢いね」 「言ってる場合か!? というかお前は加減くらいせんのか!」 「うん」 「……お前はもう闘うな」 げっそりとした表情で呻く文殊の台詞は、白象の悲鳴によって掻き消された。下手な茶番は見せるな、とばかりに不機嫌な顔をした が、白象を一蹴したのだ。 痛みにのたうち回る白象を制御しながら、普賢が説得を試みる。 「ねえ、 ? 僕の声が聞こえる? …もう止めなよ。僕達が本気を出したら、君達でも敵わないのだから」 は益々不機嫌になり、返事もせずに普賢の懐を狙った。動きを読んだ普賢が、器用に白象を操り躱す。 躱しながら、普賢は悟空の様子を探った。だが、悟空は未だに姿を現さない。あれくらいでは死なない筈。まさか気絶している訳でもあるまい。すぐに注意を へ戻す。 は手を伸ばし、両手を合わせていた。その手を引き離したかと思いきや、離した空間から九つの炎の玉が現れる。直径十センチ程の大きさの火玉九発が普賢を襲った。
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