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桜華別路之禍梯第参拾弐話「





 「どうして、龍が?」
 小さく呟く を他所に、龍は警告する。
 「我が主、天帝と釈迦如来様の命に因り、ここから先は何人たりともお通し出来ません。それが例え、菩薩様方であっても」
 「お前、敖潤だな? …全く、ホーント、真面目なヤツだぜ。師匠に仕えさせとくにゃ、勿体ねー気がする」
  と金蝉以外の全員は、銀の龍の正体には見当が付いていた。だが、 は敖潤と聞き、捲簾と天蓬、そして恵岸の、彼に対する評価を思い出すだけ。本ものの龍になれるとまでの情報は、得ていなかった。
 しかし、これなら逃げられる、と思った。
  は涙を拭い、早口で捲し立てる。
 「西海竜王、お願いがあります」
 「 ?」
 天蓬の呼び掛けには応えずに、 は言った。
 「私達姉弟と、金蝉童子、貴男の配下の天蓬元帥に捲簾大将の五人を、下界まで連れて行って下さい。貴男がここにいらっしゃるということは、恐らくワープ装置のアウトポイントが、制御されている。或いは、パスコードそのものが変えられているのでは? それを命令したのは、天帝ではないはず。釈迦ですね? そこまでの手は打ってあるはずです」
 それを聞いた天蓬は、慌てて桜門の隣に埋め込まれているワープ装置を操作し始めた。
 「もう、判りました。釈迦が貴男に、私達を止めるよう言い渡したのでしょう? 結局逃がす気なのです」
 敖潤は 達の足止め役なのだろうが、天帝を前に出し、後で敖潤が現れるのには違和感がある。
 天帝が大人しく道を開けたのは、敖潤が居るからだ。挟み打ちにも出来る。しかし、未だ攻め入ってこない訳…。
 考える時間を稼ぐ為、 は一呼吸置く。
 釈迦は一人勝ちする方法を考え、実行しているはずだ。 の行き先は簡単に推測出来る。よって、ワープ装置に仕掛けを施すくらいの事は出来よう。 ならそうする。
 パスコードが変えられていなければ、行き先が固定されているだろう。場所は決まっている。彼が仕組んだ事なら、それが一番あり得る。釈迦は 達を捕え、強引に西方へ連れ帰るつもりだと思った。下界にしか行けないはずだが、念の為、大雷音寺直通という可能性も頭の隅に留めておく。
 もしもパスコードが変えられていれば、 を試しているのかも知れない。続く危機にどう対処するのか、力を計ろうとしていると考えられる。それをクリアしなければ、お払い箱だろうか…。
 そう、彼女は釈迦の前で自分が無知ではない事を示した。知恵試しを前提に考える。
 パスコードがそのままでも、変わっていても、行き先は只一つ。天帝や李塔天に対する建前上、安全を取りパスコードを変える。例え、天帝と伏兵を突破されても、先がないと思わせる。
 しかし、そこまでの事をしておきながら「敖潤」が派遣された理由を考えた。他に武力に優れた神は居たはず。招集する時間だってあった。職務に忠実であり、龍になって戦闘が出来る力を持っているから?
 否。敖潤は天帝と釈迦如来の命だと言っていた。釈迦も、いや、釈迦が初めに敖潤を指名したならば、敖潤を利用して逃げろという事ではないか。
 下界へ行く手段が、ご丁寧にも一つ増やされている。
 一見、最後の砦の様な配役だけれど。
 「いえ、逃がすと謂うより、確実に自分の手元に導く為に。李塔天の手にも、天帝の手にも、渡したくないから。自分の手の平に収めておきたいと、思っているはず。天帝はどこまで気付いているか判りませんが。でも、今は、釈迦に付く気はありません。あの男は信用なりません。宗教戦争を引き起こそうと、一番始めに画策したのは、釈迦です」
 「宗教戦争?」
 思いも因らない言葉に、敖潤は驚いた。
 「ええ、その為の戦力が、西方側は私達姉弟であり、東方側が用意したのは那咤なのです。普賢菩薩、もう、隠さなくても良いと思います。貴男が花果山にいらっしゃった訳は、私達が使役されるのを遅らせる為でしょう? どんな理由を付けたのかまでは、今は思い当たりませんが、私達の兇暴化と関係ありますね?」
 普賢は黙っていた。 は文殊に視線を向ける。彼もまた普賢と同じく事情を知る者だったので、反応を見た。
 「西海竜王、貴男がどこまで天帝や釈迦如来を信じ、その教えに忠実であるかは、恵岸行者の口から聞き及んでいます。ですが、今の天帝や釈迦の意志は、人々に教義として示しているものからは、遠いところにあります。仏教の版図拡大に目が眩み、エゴイズムの炎をコントロール出来なかったのですから」
 敖潤は、恵岸の言葉を思い出した。「誰が敵だか、違えるなよ」という言葉に、自分は「天帝に牙を向ける者が敵だ」と返した。それは、間違いない。
 「無意味な血が流れるのを、お望みですか」
  の言葉には、すぐさま反論出来る。しかし、敖潤は逡巡し、 から目を逸らした。この場に居る者達に視線を巡らせ、恵岸と金咤を思い出す。
 「私をお疑いになるのと同じくらい、今の天界はおかしいと思われませんか? どうして牛魔王は討伐されたのでしょう? 何故、闘神が必要なのかお考えになった事はありますか? 軍部が異様なほど力を握り始めたのは、明らかに―…」
 「黙れ!」
 「いいえ、黙りません。西海竜王・敖潤、今は正しいものが判らなくても、間違っていると判るものを、選ぶべきではありません」
 もう、泣いていた少女の面影なく、 は洗練された発声で朗々と喋っていた。彼女の心の内の必死さは、微塵も出ていなかった。
 「選べますか? 天帝と、釈迦を。苦しみから救うはずの生命を苦しめ、自らの教義に背いて生きようとしている彼等を」
 敖潤は、赤い両目を閉ざした。 に指摘されるまで、考えまいとしていた事々が彼の脳裏を埋め尽くす。そして、渦巻いたそれらは、破裂。
 「確かに、お前の謂う事が正しいとは到底思えない。しかし、ああ、おかしいと思うことはある。それが、間違っているとは、断言出来ない」
 「でも、信じる事も出来ない」
 「…認めたくないが、そうだ」
 「ええ、良いでしょう。それが、のちの選択に繋がります」
  は、再び普賢を見た。
 「時間がありません。普賢菩薩、文殊菩薩、貴男方が知っていらっしゃる事を、お話し下さい。実のところ、釈迦を見限るお気持ちは、ないのでしょう?」
 普賢は額の汗を拭いながら、金蝉の治療を続けた。 と視線を合わせ、次に文殊を見る。
 観音は腕組みをして、傍観に徹していた。
 「 の言う通りだよ。僕達は、選択を誤ったとはいえ、釈迦如来様を貶めたいんじゃないんだ。何とかして、元の道に戻って頂きたいんだ。今の仏教界から釈迦如来様がいなくなっては、とてもじゃないけど、天界も下界も成り立たない。世界のパワーバランスが、大きく崩れてしまう」
 「釈迦が行った事は、到底、取り消しに出来る事ではありませんよ」
 「うん。…知っている。全部じゃないけど、知っているよ。でも 、少なくとも、僕と文殊は、あの方を裏切れない。そして出来れば、天帝も…師匠も助けてあげたいんだ」
  は、極力感情を消し去って言った。
 「本当に、天界の方々は認識の甘い方ばかりですね。いつまでも隠し通せるような事ですか、これは」
 「…世界に必要なら」
 「もういいです」
 「聞いて、 。あの方は、本当は反省しているんだ。だから、今回の話も、君らの暴走の事を除けば―…」
 普賢は必死に言葉を重ねた。苦渋がよく顔に表れている。しかし、 はそれを遮り、抑揚のない冷たい声音で言った。
 「それが、本来私達に一番肝心な話です。でも今は、それは二の次。彼は恐怖心に負けて、非道に堕ちた。それだけの事。文殊菩薩、貴男も大筋では、釈迦の悪行を認めますか?」
 「……認める」
 うな垂れる文殊に、 は関心を失った。次いで、敖潤を見遣る。
 「釈迦の脇侍である菩薩が、天帝の弟子であったお二人が、認めました。これでも、まだ釈迦と天帝を信じますか? 私達姉弟が彼等の手に落ちれば、殺戮道具になるのは間違いありません」
 「 、それは違う! 僕達が、そんな事はさせない!!」
 普賢が叫ぶが、 は聞く耳を持たない。金蝉を預けている手前、一瞬、話を聞こうかと迷ったが。
 「西海竜王、貴男がどうしても、釈迦と天帝を裏切れないと仰るのなら、致し方ありません。諦めます。ですが、私達の行く手を阻む事は、ご遠慮下さい。せめてもの慈悲で引いて頂けないのなら、力づくで通ります」
  は、額の禁錮に手を掛けた。全員がそれに反応した。
 (今なら、まだ何とか制御が出来る。それだけの精神力は残っているはず)
 疲れは感じていたが、力を抑えたままでは、敖潤に勝てない気がした。ここで使わなければ、何の為の力だろう。望んで手にした訳ではない。しかし、忌むべき兇暴な力は、何よりの突破口となる。
  に引く気は毛頭ない。普賢も口添えをする。
 「西海竜王、僕からも頼むよ。今は、 達を逃がしてあげて欲しい。下界で上手く逃げていてくれれば、僕と文殊で釈迦如来様を説得するから。これ以上、血塗れた道を、歩ませはしないから!」
 敖潤は、選択に苦しんだ。
  を見た。金蝉と、その横で眠る子供を見る。側には観音と普賢。その後ろの文殊と二郎神。更に、捲簾とその背に背負われた那咤。最後に、天蓬。再度視線を戻し、天蓬、捲簾、那咤を見た。
 懲罰房での出来事、捲簾との初見、天蓬との初見を思い出す。厄介なのを抱えたと思ったが、思いの他、優秀だとも認めている。特に天蓬の手腕は、西方軍には欠かせないものだった。
 那咤太子。友の、おとうと。出生について、半信半疑の、悪い噂しか聞かないが、彼もまた確かに、戦いに身を投じる者として、優秀だ。その力には、一目も二目も置いていた。
 闘神としての戦歴を思い浮かべる。
 情けない。
 何を信じて良いのか、判らない。
 善いもの、悪いもの、そんな区別ですら、判断つかないとは…。
 沈黙が降りた時、悟空が目を覚ました。 は誰よりも先に気付き、悟空の顔を覗き込む。
 「悟空、気分はどう?」
 優しい声だった。
 「… 。俺、また…?」
 「気にしないの。辛いと思うけど、いつでも動けるようにして」
 悟空は頭を振って、顔を上げた。すぐに銀色の龍が目に入る。
 「…ドラゴン? え? マジで? ホンモン?」
 「本もの」
 銀色の鱗は、僅かな光でも綺麗に反射させた。悟空は、その光に見入る。絵本でしか見た事のない龍が、自分の目の前に居る。悟空は俄に興奮した。しかし、現実はそれで騒ぎ立てられるような状況ではなかった。
 「悟空、金蝉と、お別れをしよう」
 「え!?」
 「見て。普賢菩薩の治療も受け付けなくなっている。出血と、腐食が止まらないの」 
 悟空が呼び掛けても、金蝉は力なく笑うだけだ。
  は自分に対し、冷静になるよう命令し続けた。まだある次にするべき事を、実行する為に。
 「天ちゃん、パスコードは変わっているでしょう?」
 急に に話し掛けられ、天蓬の返事は一瞬遅れた。
 「え、ええ。そうです。これでは、下界へ行けない…」
 捲簾が天蓬の隣に立つ。コントロールパネルのエラー情報に目を走らせつつ、言った。
 「何とかなんねえのか? 今から見張り塔に戻っている暇はねえぞ!」
 「判っています。でも、もう僕じゃどうしようもありません。ただ、 が言ったように、竜王が僕等を連れて行ってくれるのなら別ですが」
 共に上官を見上げた。そんな融通が利く人物とは、この危機に陥っても、少しも思えない。甘さは、期待無用。
 ただ、けじめは付けたかった。



  にはまだ運が残っているようだった。彼女の脳裏に閃いた展開が、すぐに次の行動プランを修正し始める。
 捲簾達が敖潤と話し始めると、 は気持ちを切り替え、目で二郎神に合図を送った。二郎神は軽く頷く。彼にも、「加勢の意志」が伝わっていた。
 すっかり傍観者となっていた観音は二人のやり取りに気付いたが、敢えて何も聞かなかった。
 甥の死を目の前に、観音は口を閉ざした。見守るだけ。伝えたい事など何もない。総て、 と悟空が言うだろう。悲しみはある。しかし、無力だ。
  は、金蝉と悟空に目を向ける。片膝を付き、金蝉の手に自分の手を重ねた。白く冷たい手だった。
 「 、悟空、泣くな」
 「金蝉、そんなのムリだよお!」
 ぐしゃぐしゃに泣く悟空は、金蝉に縋る。
 「 の言う事は、ちゃんと聞けよ。二人とも、喰い過ぎで腹壊すなよ。それから、寝る時は風邪引かねえように…」
 金蝉は咳をする。一緒に血が吐き出された。
 「んな事は判ってるよ! でも、金蝉が居ないと…、俺、すっっげえ寂しい! ゼッテー、そんなの、イヤだーーーッ!!!」
 「別れが早くなっただけだ」
 「ヤだったら!」
 「 、悟空を頼んだぞ。悟空は、 を護ってやれよ。それだけは、絶対に、…」
 咳が止まらない。呼吸が苦しい。視界にかかっていた靄が、一層酷くなる。
 「金蝉!」
 「それに、那咤も、ダチも護らなきゃな」
 「! …うんっ。約束する! 約束も守る!」
 「そう、だ。ああ…」
 金蝉が息を吐く。上手く吸い込めた空気は冷たく、まだ自分が生きている事を彼に気付かせた。速く浅かった呼吸期間が終わり、ゆったり呼吸するしかない。じき、止まるだろう。
 彷徨った視線の先に、観音が居た。一瞬だけ姿が見えたが、すぐに霞の向こうに消えた。金蝉を見て、笑っていたようだった。
  は、金蝉の気が消え入りそうなのを感じ取っていた。もう泣きたくはなかったが、叫び声の代わりに、涙が流れた。我慢しただけ、のどの奥が痛かった。
 「もう、夜も近いのに、こんな近…くに、太よ、う」
 言葉が、続かない。
 金蝉の小さくなっていく声に反して、悟空の嗚咽は大きくなった。金蝉の名を、必死に呼んでいる。
  は金蝉の手を握り締めた。最期の言葉を、脳に、魂に刻む為、騒つく血を押さえるのに気を割くのを止めてしまいたかった。
 風もなく、桜の花弁が金蝉の髪に落ちた。 は、金蝉とは出会いも別れも桜の下である事に奇妙な想いを抱く。

 「たいよう、に、会えたのは、俺のほう……。おれは、お前たちの、たいよう…に」

 俺は、お前達の太陽になれたか?
 そう聞きたかったのだろうと、 は解釈した。
 「ええ、勿論、金蝉はずっと、これからもずっと、私達の太陽よ」
 もう、聞こえていないだろう。
 判っている。
 けれど、声に出して伝えたかった。
 悟空の慟哭が木霊する。 は悟空が暴れ出さないように、彼に必死でしがみつき、躰を押さえ込んだ。
 金蝉の死に顔は、いつもにも増して、綺麗だった。
 そして、穏やかだった。
 文殊は、悟空の大きな泣き声を聞きながら、後ろを振り返る。「せめて、観音の甥の命が尽きるまで」と言って、天帝に待って貰っていた。この声で中に突入してこないだろうかと不安になった。
 「心配ありませんよ、文殊菩薩」
  の小さな声が、文殊の聴覚に響く。
 「今はまだ、彼の出番ではありませんから」
 「どういうことだ?」
 「…天帝はともかく、釈迦は私を待っています。下界で、必ず」
 「下界でだと? 釈迦如来様がいらっしゃらない訳は、下界にお出掛けになっているからなのか?」
 「今、釈迦は気配を消しています。行き先があるとすれば、花果山です。まさか、釈迦ともあろう人が、傍観者気取りで隠れているとは考え難い…」
  は、自分をきつく抱き締める悟空を立たせて、空を仰いだ。
 日が沈む。
 夜は、逃亡に適した時間だ。
 「西海竜王、そこを退いて下さい」
 「退いても、行き場がないぞ」
 「問題ありません。解決済みです」
 「…? 何を…」
 訝しむ敖潤に、 は少しだけ微笑んだ。
 「貴男の背中に、一度乗ってみたいわ。…本当に、それで世界を観てみたいと思いました」
 「何を言っている!?」
 「とても素敵でしょうね。残念です。……さようなら」
  は自分の気を完全に消し去った。それが、合図。
 敖潤の後方にある、ワープ装置がひとりでに作動し始めた。
 「天ちゃん、ケン兄、中に入って!」
  と悟空が金蝉と別れている間、天蓬と捲簾は、上官である敖潤に除隊の意思を告げていた。
 敖潤は、それを認めた。
 既に、彼には逃亡を止める気がなくなっていた。
 そのまま、急な事態に驚きつつも、戦いもせずに見送る。素早く人型へ戻った。
 「…見張り塔に居るのは誰だ?」
 「恵岸さんと、金咤さん。もう、その場には居ません」
 李兄弟は、事実、ワープ装置を遠隔操作した後、早々に逃げ出していた。どんな移動手段を使っているのか判らないが、彼等の気は急スピードで離れて行く。
 「 、来るぞ!」
 気を読める二郎神は、天帝の動きを察知した。
 「ええ。悟空、金蝉を一緒に運ぶのよ。早く」
 頷いた悟空は、涙を拭う間もなく金蝉の腕を持つ。
 「! 駄目。ごめん、悟空、金蝉を背負って、天ちゃん達のところへ走って!」
 言うや否や、 は敖潤の前へ飛び出した。
 「我が儘ばかりでごめんなさい。少し、演技して頂けますか?」
 「茶番より、本気の方が良いだろう?」
 「え?」
  はすぐには、敖潤の言っている意味を計りかねた。
 「龍を本気で怒らせる方法は?」
 「…逆鱗に触れる」
 敖潤は皮肉気に笑い、白い軍服の襟を開いた。










*2007/02/18up