桜華別路之禍梯第参拾弐話「訣」之弐 「私の逆鱗は、ここだ」 白い鱗の肌。左右の鎖骨の真ん中に、逆向きの小さな鱗が白銀に閃いた。 は、迷わず手で触れた。 が近付いた瞬間、敖潤は囁く。 「お前が正しければ、また会う縁も、背に乗せてやる機会もあるかもな…」 「…楽しみにしています。ありがとうございました」 「敖潤ッ! 何をしている! その娘を引っ捕らえよ!!」 天帝の台詞が終わらない内に、敖潤は怒り荒れ狂う銀龍へと変貌した。 は銀龍の下を通り、下界へのゲートへ急いだ。彼女は振り返り、龍と、観音達を見る。 観音と二郎神は笑っていた。 反射的に微笑もうとしたが、巧くいかなかった。強烈な発光に負け、きつく目を閉じる。周りで空気の破裂音が小さく鳴っていた。熱が躰を駆け巡ったような心地になる。 天蓬の声に目を開くと、懐かしい花果山の匂いがした。 忘れもしない、この土と木の薫り。 「 、ここ、花果山だよな?」 「ええ、そう。間違いないわ」 「は…。やっと…」 くずおれる悟空を支えつつ、 は油断なく周囲を見渡す。途中、悟空が天蓬に預けた金蝉が目に入った。 「釈迦と決着を付ける前に、金蝉を埋めてあげよう」 「…どこ?」 「桜の樹の下へ」 の提案で、移動をする事になった。彼女は花果山の地理を良く覚えていた。山桜へと誘導し、力を抑えた気弾で以て、地面に穴を開ける。当たりを付けたら、後は手作業だ。悟空と二人で、穴を掘り続けた。 「今が春で、桜が咲いていて、良かったわ」 桜を見つめる に、捲簾が優しく呟いた。 「丁度、満開だな」 も、捲簾も、悟空も天蓬も、天界で一度だけした花見を思い出していた。 金蝉が「見てみたいものだな」と云っていた、下界の桜だ。 悟空の泣き声が小さく響く。 必死で押し殺そうとしているが、明らかに失敗していた。 は悟空の涙を拭ってあげたかった。爪の中まで土塗れなので、せめて何か言おうと悟空を見る。 その背中越し。 予感はしていた。 待っているなら、これほど判り易い場所はないであろうと思っていた。 山桜のあるこの場所に来て、すぐ仰ぎ見た時にはなかった影。 と悟空が産まれ落ちた花果山山頂の巨岩の下。 「もう少し、待てないものかしらね」 の呟きに、捲簾と天蓬が反応する。はっきりと顔までは判別がつかないが、離れていても感じる、高貴な神の気。 「…釈迦如来!」 「チッ! おい悟空、しっかりしろ! 泣くのは後だ」 赤茶けて見える月の下で、釈迦は告げた。 「どうせ、あと二つ、穴を掘る事になるのだ。何なら、予が手伝ってやろうか?」 「大きなお世話!」 は禁錮を取り外し、跳躍した。悟空も涙を拭い、釈迦を睨み、戦闘態勢を取った。 が人外のスピードで釈迦に近付く。 視線が合ってすぐ、 は気弾を三連発打ち出し、それらが避けられる事を想定内に、死角へ回り込んだ。足先に気を集中させ、渾身の蹴りを繰り出す。 釈迦は右腕でそれを止め、腕一本で を吹き飛ばした。続け様、両手の双剣を振るう。 は空中で体勢を整え、剣を追った。 「もう遅い」 釈迦の隣を過ぎ行く時、彼が言った。双剣は、釈迦の意のままに、地上に居る悟空達へと迫って行く。 は空中から気弾で撃ち落とそうとしていた。 捲簾と天蓬は、避けながら拳銃を構える。 二人同時に、刀を持ってくるべきであったと、後悔。 気弾を突き抜けて各々に迫る、白亜の刀身。 天界製の強力な銃弾を受けても、ものともせずに。 白亜の刀身は、漆黒の軍服と白衣に吸い込まれる様に突き刺さり、鮮紅の花を咲かせた。 花火の様に一瞬の、華。 「ケン兄! 天ちゃんッ」 悟空の悲痛な叫びが夜闇に響く。 駆け付けた が治療の為、手近な天蓬へ寄り、地面に横たえた。心臓に刺さっている剣を抜こうと、手を添える。また涙が出始め、視界が歪んだ。のどと鼻の奥が痛む。 「抜かないで」 「天ちゃん?」 震える声で、天蓬が言った。 の手を探して、彼の手が上がる。 は、手を握った。 「抜いても、致命傷に変わりありません」 「何を言っているの。大丈夫。治すわ」 「駄目です。今、僕の体の中で、刀身から出た何かが…」 「何か?」 「俺の方もだ…」 捲簾が喋った。特殊繊維の軍服も役に立たず、釈迦の放った剣が突き刺さっている。但し、捲簾の方は、僅かに心臓から外れていた。 「刺さった直後、更に体の中で痛みを感じました。恐らく、風車…卍の様な刃が出ているのだと思います。そういう仕込み武器があるんです…」 だから、剣を抜くと刀身から飛び出ている別の刃で他の内臓を傷つけてしまう。確実に死に至らしめようとする意志が感じられた。 「何て事…」 は目を剥き怒った。立ち上がる怒りの感情が、頭を締め付ける。ギリギリと痛む感覚に、目を細めた。 「 、お願いです。早く逃げて。僕等の事はもう良いですから、釈迦の攻撃が再開される前に…」 「あの男は、貴男達の命が尽きるまでは攻撃しないわ。高見から見物して、それからよ」 は声を抑えた。ともすれば、激昂してしまいそうだった。 天蓬の口元が緩み、か細い声が出た。息が荒い。 「…手を、離さないで下さいね」 「ええ」 「やっと、外へ出られたのに。貴女と、一緒に暮らせると…」 「思考は自由です。夢では逢える。一緒に不自由のドアを出て、その先で共に生きましょう。約束するわ。天ちゃんから手を離すのは、私、許さない」 「もち、ろんです。 、絶対、手放しません…よ」 天蓬は最期の力を込めて、 の手を握る。 いつもの優しい微笑みを浮かべたまま、彼は逝った。 はひと呼吸置いて、涙を拭う。釈迦を見上げて睨んでやったが、当の釈迦は目を瞑っていた。開ける気配はない。 天蓬の手を放し、 は捲簾へ寄る。捲簾の腕に縋り付いている悟空の髪をひと撫でし、捲簾の命の残量を計った。気の大きさで、今の にはそれが判る。 「おお、やっと が来たか。天蓬ばっかりズリィの…。やっぱ、俺が死ぬ時には、女が居ないと…。でも、なあ、頼むから泣くなよ。悟空もお前も放っておけねえからよ、心配だから、俺は死なねー。死ねねえよ…。畜生」 「ケン兄、死んじゃ、ヤダ…!」 むせび泣く悟空が、震える声で懇願した。 「死なねえっつてんだろーが。ちょっとだけ早く、先へ行ってっから、お前等は百、二百と生きてから来いよ? じゃなきゃ、ソッコー追い返してやるからな」 「うん、判ってる」 が答えた。言いながら、捲簾の頬に付いた血を拭う。釈迦に勝って、ちゃんと水で綺麗に落としてあげようと思った。 捲簾は、血の味がする口内と痛み続ける躰を出来るだけ無視して片手を挙げた。震えて定まらない指先で、何とか釈迦を指そうとする。喋るもの苦しかったが、これだけは言いたかった。 「何が仏だ。無殺生だ。…トップ自ら、否定するとはな。なあ、聞こえてんなら、頼むから、俺等を殺した事は闇に葬っても良い、このがきんちょ共だけは、殺さねえで…」 捲簾の声が聞こえていた釈迦は、無表情のまま、目を閉じたまま割って入った。 「何を勘違いしている? 天蓬元帥と捲簾大将を殺したのは、野性を押さえ切れずに暴走したそこの異端児共だ」 「な…」 捲簾は釈迦の言い分に絶句した。本当に、これが釈迦如来か。仏教の開祖と崇められている人物の言う事か? 「無駄よケン兄」 「チ…。ワリィな、二人共。も、護ってやれねぇわ。怒りすぎた所為、で、か、視界赤…い、し。ちくしょう」 捲簾の手が、地に落ちる。呼吸も壗ならない。 「ケン兄ぃ!」 悟空は自分の無力さに打ちのめされる。何も、出来ない。 「ケン兄、心配しないで。私達は、絶対に死なないから。さっきの釈迦の台詞は、私と悟空を殺さないと言ったも同然」 「え? どういう事?」 悟空も捲簾も、 の言っている意味が判らずに、彼女を見つめる。 「だから、心配しないで。ケン兄が眠った後は、花果山で一番美人の桜の下へ連れて行ってあげる」 「 …」 「ケン兄に頭を撫でて貰えて、嬉しかった。頼れなくて、ごめんなさい」 「もういいさ、おまえたちが、無事、なら、先行くだけ、だ。じゃあな…」 捲簾も、微かに笑って逝った。 「うん、じゃあ、またね」 は寄せていた躰を離し、悟空の様子を見る。捲簾の死を受け入れ切れず、呆然としていた。しかし、いつ兇暴化してもおかしくはない。これで兇暴化すれば、本日三度目。悟空の躰が持たないのでは、と心配になる。 どう計算しても、釈迦に勝てる見込みがない。 もしも、 も悟空も、力を解放し切った状態で自我を保てるのなら、あるいは勝機があるかも知れない。 けれど、今感じる釈迦の力と、肌で感じる「得体の知れないプレッシャ」が に勝ち目がないと思わせていた。釈迦自身の力ではないようにも思える。となれば、宝貝。まだ見ぬ神具の存在に、恐ろしさを感じている。 ここに天帝が加われば、お終いだ。 あれで引く天帝だろうか。自分の手を下さなくても良いのなら、釈迦に任せるだろう。ただ、力に自信があるのなら? 雷だけでなく、天帝も宝貝を持っているはず。 対して、 達は自身以外に頼るものがない。 連携プレイ。ダブルバトルになったとしても、つけ入る隙はそれくらい…。 否、戦闘経験が違いすぎる。にわかコンビでも、釈迦・天帝の方が強いだろう。 今は。 今は、とても口惜しいが、負けるしかないようだ。 殺されなければ良い。 反撃の機会を待とう。 それまでに、強くなれば良いのだ。 冷静に。 冷静になれ、 。 まだ終わっていない。総てを終わらせるのは、まだ先だ。 強く、強く、自分に言い聞かせた。 「悟空、認めたくないと思うけど、ここは私達の負けよ」 「…… ?」 「時間が要るわ。強くなる為の、時間が」 「どうして…。やっぱり…」 「うん、やっぱり、勝てそうにない。ほら、天帝も来た。私達は、自分の身と一緒に、那咤も護らなくちゃならないわ」 「でも、俺達も、殺されるんでしょ?」 「いいえ」 「え?」 きっぱりと否定する の声に、やはり悟空は意味が判らない。しかし、釈迦は笑んだ。 「私達の事は、生かすしかないのよ。それが、彼のシナリオ」 は釈迦に向かって言い放つ。 「いいわ、お前のその案、乗ってあげる」 釈迦の隣に辿り着いた天帝は、どんな取り引きがあったのかと訝しげに釈迦を見遣る。異端児達が那咤を気にしていた事に思い当たり、尋ねた。 「釈迦如来様、那咤太子の事はいかがなさるおつもりか」 「生かしておけ。後々、役に立つ」 「…そうでしょうか。わたくしめは、李塔天の居ない今、那咤が言う事を聞くとも思えませぬ。あれは、李塔天が居たからこその殺人人形です―…」 ぴくり、と と悟空が反応した。二人共聴力がずば抜けて良い。山の澄んだ空気と、物静かな空間のおかげで、距離があっても声が聞こえた。 虫も獣も、声を潜め、身を遠ざけている。危険を孕んだ雰囲気を辺りに撒き散らし、静寂で人でも殺せそうな夜だった。 「わたくし達の脅威、とまではいきませんが、腹の中に抱えて無視出来る存在でもないでしょう」 「餌だ」 「は? エ、ですか?」 釈迦の言葉が理解出来ずに、天帝は聞き返した。 「那咤太子が居れば、あの二人はその場所へ戻って来ざるを得まい」 釈迦は確信して言った。 「…必ずな」 「それでは、傀儡の秘術を用いましょう。久方振りで不安はありますが、わたくしの手中に置いておきます。元々、那咤太子はこちらの戦力ですから」 悟空が眉根を寄せて、 を見る。 「くぐつって、何?」 「術者の、天帝の思い通りに操る事。操り人形。そこに那咤の意思は、ない」 「! あいつ等…」 「ねえ、私、さっきは負けを認めると言ったけど、天帝が那咤に手を出すようなら、保身は捨てるわ」 はとても小さな声で言った。隣の悟空にだけ、辛うじて聞き取れる程度の声量だった。 「絶対に、手出しさせない」 「うん。でも、どうしよう…」 「…悟空、金鈷を外しても、自分の意志で動ける?」 「………ムリ」 「それが出来れば、正攻法は無理だけれど、隙を突くくらいは出来るかも知れない」 悟空は、金鈷を外した時の事を極力思い出そうとするが、具体的な事は何一つ覚えていない。ぼんやりと霞掛かった記憶を包むのは、純然たる怒り、そして、狂気。 おぞましい感情だけ。 「絶対、無理」 悟空はプルプル首を振った。 「そう。この無理は、しない方が良さそうね。交渉してみるわ」 釈迦と天帝は、那咤の処遇について揉めていた。どうしても、天帝は今この場で、大人しく気絶している那咤に術を掛けてしまいたいらしい。 「悟空、いざとなったら、無理矢理にでも那咤を起こすわよ。那咤を抱えたままでの移動は、それこそ無理がある」 「うん、判った」 は、釈迦の策略家としての頭脳を認めていた。不本意ではあるが、あの男は、元来切れ者なのだろうと思う。 達の神経を逆撫でするような、那咤の自由を奪う行為には、反対をし続けるだろう。 「那咤が駄目ならば、 を下さい。あの娘が欲しい」 「那咤の身柄はそなたに任せる。しかし、術で無理矢理操ってはならない」 「納得いきません。そこまで干渉される謂われは、ないように思います。ええ、そう。那咤は殺人人形。唯一殺戮行為を許した、西方の闘神なのですから」 「ふざけるなっっ!! 勝手に那咤に、ひとごろしさせんなよ?!」 天帝の冷たい視線を受け止め、悟空は睨み返した。 は一先ず、那咤を起こそうと決めた。交渉するつもりだったが、この話題は悟空に任せようと思った。 慌ただしく逃げていたので、確認を後延ばしにしていたが、那咤の状態で気になる事がある。 もしも、 の考えが的中していれば…。 那咤は、もう、生きながらにして死んでいる事になる。 ゆっくり上下する胸元を見た。首筋に手を当て、脈を診る。夜気に晒され、冷たい頬。彼は、生きている。 那咤の体を流れる気も、それを証明していた。 気を感じている事で、どこか安堵して、それ以上の事を考えなかった。 どうして? この大騒動の中、那咤は一度も目覚めない? どうして? (何故、私はこんな肝心な事に気が付かなかったの?) 悟空の怒りの声を聞きながら、 は自分へも怒りを向けていた。那咤の頬を軽くはたく。 「ねえ、那咤、起きて」 絶望感が、彼女を足元から蝕んでいく。 膝の力が抜けて、そのまま地にぶつかった。 急いで揺さぶっても、反応はない。那咤が悟空にしたように、頬を抓るが強く力を入れても起きなかった。 「貴男は、心を閉ざしてしまったの?」 那咤自らの意思、それとも、 が行った禁忌の合成再生術の副作用だろうか。疲労の為に昏睡しているだけと思いたいが……。 いずれにせよ、このままでは、完全に負ける。 悟空と那咤の身の安全を確保するには? 負けても生き残るには、どうしたら良い? の頭で、幾つもの計算が走る。どれも、絶望的だ。 のどの渇きを覚える。 袖の短い薄手の服の所為で、寒さが際立って感じられた。 これらの条件も、 を落ち込ませ、思考を鈍らせるのに役立っていた。 それでも、立たなくては。 止まっては駄目だ。 まだ、終わっていない。 何の為に行動してきたかを、思い出すんだ。 これからどう生きるかを、必死で考えたではないか。 さあ。 さあ、立て、 ! は自分を必死で鼓舞したが、しかし、立ち上がる気力は湧いてこなかった。 悟空の声ですら遠くで聞こえているような感覚が、恐ろしく思えた。 「俺達は、ただッ! ただ、一緒に居たいだけなんだよ! 別に普通の事じゃんか! お前達だって、好きな人とは一緒に居たいだろ!? メシ喰って、寝て、笑って、遊んで、もっともっと、 や那咤と居たいんだ! 金蝉達や、ケン兄や天ちゃんも一緒が良かったけど……」 悟空の両目に涙が浮かんだ。もう、戻っては来ない人達…。 (私も、同じ) は、那咤の手に触れた。左手は土を握り締める。 「だから、邪魔すんなよ! 俺達、もう、暴れたりしねーから! 俺から、 と那咤を取らないで!!」 思いの丈を振り絞って、悟空は訴えた。それが一番、大切な大切な願い。 自分の願いと、悟空の願いは一緒だ。 叶えたい。 叶えてあげたい。 貴男の為に。私の為に。 だから、 立ち上がれる。 そう、ほら、さあ。 まるで、スプリングにでもなったかのような勢いで、 は上体を起こして立ち上がった。 両膝の土を払い、溜め息。 「弱気になるのは、好きじゃないわ」 ぽそりと呟いて、月と、釈迦と、天帝を睨上げた。 「戦いましょう」 釈迦は、 の瞳に闘気と決意の感情を読み取る。打ちのめされかけていたはずなのに、こうも簡単に精気を取り戻せるとは…。 姉弟を一緒にしておく事は危険だ。そう判断した。 の言った通り、初めから異端児達を生かすつもりだったが、悟空を殺す事をちらと考えた。しかし、これからの事を考えると得策ではないと思い直す。 天帝も、 の変わりようが気に入らなかった。あの少女は危険だ。今のうちに、潰せるだけ潰して、暫くの間は自由を奪わなければ気が休まらない。縛妖索は、あと一つ。 「良いか、殺すなよ」 「……はい」 天帝は腕に巻き付けた縛妖索を確認しつつ、宝貝・盤古幡を取り出した。 *2007/03/13up |
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