桜華別路之禍梯第参拾参話「朧」 恵岸行者はただ一人、夜の明けゆく東の空を見上げていた。雲の流れが、早い。 目を瞑り、 の気が消えた事を、痛ましく思う。 悟空の気は、 より早く消えていた。 は奮闘したようだが、釈迦・天帝には遠く及ばない。 那咤の気が感じられる事が、唯一の救いだった。 達は、恐らく、殺されていないはずだ。天界人は、殺さずが信条。気絶させられている、そう思いたかった。 今頃、普賢の下へ戻った金咤も、二郎神から経過を聞いている事だろう。 その日の昼過ぎには、殉職した兵士達の葬儀が行われ、裏切り者のレッテルを貼られた西海竜王・敖潤が、懲罰房へ入れられた。 「裏切り者…。何故ですか? わたくしが裏切り者として捕まるのならまだしも、何故、敖潤が投獄されねばならないのです?」 恵岸は軍人ではない。しかし、錯綜する情報へと飛び込み、天帝の城で騒ぎの事後処理の様子を探っていた。そうでなければ、あと一日、二日は出遅れていたかも知れない。 聞き捨てならずに、もう少しは情報を持っていそうな、観音の下へやって来ていた。 「金蝉は造反罪、捲簾大将と天蓬元帥は造反罪と殺人罪。 と悟空は殺人罪に不敬罪エトセトラ…、師匠は、全治一ヶ月だとよ。ま、治癒術でとっとと治しちまうんだろーが。釈迦も少しだけ、怪我を負ったらしい。普通なら、こっそり処刑されててもおかしくないがな。何せ、こんな時の為の闘神が居ない」 観音は、そこで早い溜め息を吐いた。僅かに剥がれたマニキュアが目に入る。 「敖潤は?」 「…。自分で認めたんだと」 「認めた?」 敖潤は、自ら、 達を逃がした事を証言した。 軍法会議に掛けられるのは理解出来るとしても、一番納得がいかないのは、敖潤には死刑の噂もある事だ。 恵岸は 達が下界へ行く前、敖潤の気が恐ろしく跳ね上がったのを感じた。見張り塔からも白銀の龍は見えていた。龍化したまま本気を出したのだと思った。恵岸に推測出来たのは、原因がその辺りではないか、という事だけ。 「殺さずを破ってまで、どうして敖潤だけ…」 「龍王の一族が提案したんだそうだ」 「…何ですって?」 「敖潤は、一族の恥である、っつて、逆鱗に触れられ、自我を無くした龍化に対して激怒している。龍のボスにとっちゃ、そっちの方が一大事なんだとよ。追放でも、一生涯投獄でもなく、天界軍部が死刑にしなきゃ、てめーらでやるそうだ」 恵岸は信じられなかった。敖潤が、龍達のある意味弱点でもある、逆鱗に触れられた? 他者に逆鱗を触られるとどうなるのか、かつて聞いた事があった。だから、余計に信じられない。敖潤は、戦闘時には必ず強固な胸当を付けて守っていると云っていた。 「 が逆鱗に触れたのですか?」 あの少女の事だ。それくらいの知識を有していても、何ら不思議はない。 「ああ、敖潤が自分で触らせた。 達を、逃がす為に」 恵岸は、眩暈を覚えた。けれど、ゆっくり得心する。 ( の為、か) 彼女に魅かれたのだとしたら、部下の為、という理由より遥かに理解出来た。 は、一体どんな言葉で、どんな表情で敖潤に接したのだろう? 恵岸は敖潤に会おう、と決めた。 半月後、やっと面会が出来た時には、敖潤は全く後悔などしておらず、生が終わる時を静かに待っていた。 その夜浮かんでいた、朧の月のように。 独房の中に染みついている血の匂いを嗅ぎ慣れた頃、 は、天帝自らの勅旨を受けていた。 天帝の城の下に造られた独房の中でも、特別に設えられた強力な結界を張った部屋の前で、天帝は護衛を六人従え、 を睨んだ。 「釈迦如来様の、厚い御慈悲により、お前は明日から五百年間、九華山の地下深くに繋ぐ事となった。本来なら、その命で以て償わなければならないほどの悪行を、赦して下さるそうだ。予も、それに従う」 天帝は、六メートルほど離れた に言った。 真言を書き綴った特殊檻の隙間から、最上級の封印具で縛りつけられている の黄金の瞳が天帝を睨んでいた。 互いに睨み合った後、天帝は無言でその場を離れた。 後ろに閉じ込められていた、敖潤には目も呉れず。 静まり返った懲罰房の最奥では、静寂は耳に痛く、鎖の音は耳障りな事この上ない。 敖潤は、喋る事も許されない を哀れに思った。 は躰、顔、その殆どを封印札で覆われていて、身動きすら叶わない。繋がれている鎖の音が鳴った事は、彼女がここへ連れて来られた時だけだ。結界を張るのに手間が掛かり、 は敖潤よりも後で投獄された。 敖潤は、言葉が交わせない事を多少残念に思っていた。 「…いよいよか。もう、会う事もないだろう」 の目が、悲しそうに伏せられる。続けて目を閉じた。敖潤が、死刑を確定された事を知っているから。 に不老の法を用いれば、或いは彼女が神仏の力を得られれば、長寿は可能だ。敖潤は何百年生きたか忘れていたが、もっと長く生きていられる。 生きてさえいれば、五百年の月日など大した問題ではない。 また、会えるだろう。 「後悔はしていない。逆鱗の事は、お前が気に病む事はない。やられる素振りとか、わざとらしくなっただろう。…俺は演技が巧くないからな。それに、天帝の足止めにもなった」 から返事は返らないが、彼女の視線は真摯なものだ。 「………こんな、神通力封印さえなければ、お前を背中に乗せて、逃げてやるものを」 敖潤にも、拘束具が着けられている。龍族最高峰の封印術を以て、裏切り者を捕えていた。決して、決して逃げられないように。 座り込んだ地面はとても冷たかった。 じゃらり、と耳慣れたようで、初めて聞くような金属音に不快感を覚えつつ、晴れた空を見る。 視線だけは、自由だった。 口を開いても、喋る事がない。思い付かない。 そら。 くも。 き。 つち。 とり。 ひかり。 たいよう…。 目に入るものを、片っ端から名称を思い浮かべてみる。 ふく。 て。 あし。 おなか。 その上には、見えないけど首。首の上には、顔。自分の顔。 め、はな、くち、みみ、まゆ。 め。 眼。 俺の、眼。 あれ、どんな色だっけ? えっと、えっと。 確か、黄色。 バナナの色。 …それだけ? あれ、他にもあったよね? 俺と同じ眼の、あの、 ……何だっけ? 何だっけ? あ、 つき、だ。 そう、この月で何か思い出しそう。やった! …だめだ。 判らなかった。 太陽が出ちゃった。でも、太陽も、大切だ。何でだか、胸が苦しい。 何でだろ。何でだろ。 俺、どうかしちゃったのかな。病気かな? 心配されちゃうかな。 ―…誰に? 怒られると思うな。 ―…誰に? あれ、誰にだろ。 俺の他に、誰か居たっけ? 全然、判らねー。思い出せない。 胸が、苦しいよ。 穴が開いたみたいに空っぽになってる気がするのに、痛い。 ああ、助けて。 誰か、たすけて。 しんぞーが、いたい。 のどの奥から、腹の底から何か出て来そう。 誰の事? そして、俺は誰? 俺は悟空。 どうして、悟空? また月が出た。 月に手を伸しても、届かない。鎖が邪魔だ。土の柱も邪魔だ。手は出せるけど、躰は無理。これ、檻? 前にも、似た様なものを見た気がする……。 あの月に、触れたい。 どうして、俺はこんなところに居るんだろう。座り込む前は、どこに居たんだっけ? ハテナが一杯だ。 どうしよう、寂しい。 涙を拭ってくれる人も居ない…。 孫悟空は泣きながら、両膝に顔を埋めた。 は夢を見ていた。 夢の中で、彼女は金髪の男だった。 その男の目線で、自分を見ていた。 眠っている の隣に誰か居る。寝相が悪く、布団からはみ出している。壁に顔を寄せている為、誰か判らない。 掛け布団を直してやる。躰も、起こさないようにゆっくりと布団へ戻す。 男の子だ。 誰? 疑問に思ったが、すぐに忘れて、 は自分を見た。寝顔に触れる。 手を離すと、今度は本棚が所狭しと並ぶ部屋に立っていた。 急に場所が変わった事に驚いたが、また自分が目の前に居て更に驚く。 の姿をした子供は、ソファに腰掛け、分厚い本を読んでいた。見覚えがある気がする。 隣に腰掛け、中身を覗いた。オブジェクト指向についての内容だった。そう、覚えている。確か、「 」に借りたものだ。 え? 待って。今、誰を思い浮かべた? 名前も、顔も思い出せない。 嘘だ。だって、あんなに、あんなに話したのに! は、目の前の自分の顔を上げさせ、瞳を見ようとした。そうすれば、今の自分の顔が判る。その人で、間違いない。ここは、その人の部屋だからだ。 金の瞳を覗き込むと、今度は川が現れた。手には、釣り竿。 丁度、魚が引っ掛かったところで、 は竿を引き上げた。小さな川魚が跳ね回る。隣に居たのは、やはりまた だった。魚を入れる壺を差し出していた。 いつか見た光景だ。確かこの時、 は一匹しか釣れなかった。 一緒に居た人は、五匹釣っていた。その人は、誰だったろうか。また、判らない。 川の水面を見る。自分の顔が映る前に、視界は真っ黒になった。 今度は、どこだろう。 目が慣れたので、起き上がってベッドを降りる。手探りで、覚えのある位置まで行った。記憶通り、明りのスイッチがあった。後ろを見ると、枯れかけた黄色い花が、花瓶に飾られていた。 の躰から、解けた包帯の端が床に着く。包帯を解いていくと、自分とは違うからだが出て来た。 まるで、機械。 まるで、人形。 そうだ、あの花は、私が「 」にあげたものだ。お見舞いの為に、「 」から貰って…。 は急に、消えてしまいたくなった。 泣きそうになった途端、暗闇の中で目が覚めた。 濃い土の匂いの中で は堪らず目を閉じる。自分で作り出す闇の方が、少し温かい。 あり得ない幻想を抱きながら、眠る事に怯えた。 これから五百年間も彼女が見る事の敵わない外の世界では、仄かな光が夜の空を守っている。 薄月が有明の月に変わる頃、ようやく気を失うように眠りに落ちた。 *2007/05/04up |
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